うそっぱちのナイフも錆びてきた



 名のある学校のブレザーを着た一人の女が、道を歩いている。その背後から虎視眈々と近づくのは、全身黒ずくめの男。彼の存在に気づいていないその女は、茶色のローファーを軽快に鳴らしながら歩を進めていた。
 徐々に縮まる、二人の距離。男の歩幅はだんだんと大きくなり、人ひとり分まで女と接近すると、突如、男の長い腕が彼女に向かって怪しく伸びた。
 ――瞬間、男は女の手首を乱暴に引っ掴む。先程まで女の様子を慎重に窺っていた男はどこにもいない。女は腕を振ったり体を捩ったりして抵抗するが、ただ暴れているだけでは男の腕力に叶うはずもなかった。男はさらに女の体を引き寄せようと、彼女の腕を手前へと引っ張っている。あと数秒もせずに二人の体が密着してしまう――そんな時だった。
 ふっ――と、女が体の力を抜いた。拮抗していた力のバランスが崩れ、男の体が後ろにたじろぐ。その隙をついた女が、男の腕の急所をぎゅっと押した瞬間、彼が言葉にならない悲鳴を上げて、盛大に尻もちをついた。
 わああぁっ、と外野から歓声が上がる。男から数歩距離をとった女は、よろよろと立ち上がる男を静かに見守っている。その表情は、毎日こちらの目に焼き付けられている、人の良さそうな笑顔だった。







《――以上が、高校生にもできる簡単な護衛術の一例です。次は、実際にみなさんにも実践してもらいますので、右側のクラスから武道場へ移動を――》

 ぷつ
 モニターから聞こえていた第三者の声が止む。物語から目が覚めたように、銃兎は眼鏡の奥で瞬きを数回繰り返した。すると、真っ黒になったモニターを遮るように、先程まで画面の中にいた女が横からひょっこりと顔を出す。探りを入れるような笑みに、銃兎はすっと目を細めた。

「どうですか~? わたし主演の寸劇は」

 は朗らかにそう言う。どうもなにも、どんなコメントを期待しているのか。との付き合いは未だ短いが、彼女の深奥まで触れた身としては、の考えていることが分かってしまうのが憎いところだ。それを、あえて外すことができない自身も然りである。

「……力のない女子高生が予期せぬ非常時に出来うる最善策、とでも言っておきましょうか」

 案の定、これが正解だったらしい。自分の言葉を真に受けたはにこ~っ、と笑みをさらに深いものにした。


 近所の女子高校で犯罪被害防止教室を開くため、若い女の子の助っ人が欲しい――地域安全課からそんな知らせを受けたのは、今から三日前。なんでも、部署にいた婦警の何人かが産休に入ったため、人手が足りていないらしいのだ。
 依頼する部署間違えてるだろ。その話を聞いた銃兎は内心そう思ったが、こちらももう大人だ。にこやかに対応しつつ、決して首を縦には振らない。あいにく、こちらも連日の事件で猫の手も借りたいほど多忙なのです――そう言いくるめようとしたその時、不幸なことに、ちょうど出先から戻ったとばったり出くわしてしまったのだ。
 を見るやいなや、まるで蜘蛛の糸を垂らされた囚人のように目を輝かせた地域安全課の人間。なぜ組対に別部署の人がいるのか、とも詳しい説明を求めるようにこちらを見るものだから、銃兎は事情を説明せざるを得なくなった。しかし正直、説明など一言たりともしたくない。なぜならば――

「え? 犯罪被害防止教室ですか? 全然いいですよ~」

 こいつは本当に安請け合いが過ぎるからだ
 渋々話せばこの始末。地域安全課の人間が蜘蛛の糸を掴んだ顔をした。と銃兎に何度も礼を言って、日程の詳細は後日に云々と早口で言うと、上機嫌で組対の部署を後にした。一番最悪な事態に陥ってしまったことに、銃兎はの横で顔を歪める。「そんな顔しないでくださいよ銃兎さぁん」というの横槍も、いつもより割増で癇に障る。うるせえよ。誰のせいだと思ってんだ。

「いいじゃないですかあ。わたし、その日非番ですし、このあいだ抱えてた案件もようやく一件片付けましたし。わたしが一人欠けたところで、うちにもそんなに影響はないと思うんですけど」
「そういう問題ではないんですよ」

 銃兎は溜息混じりにそう言う。休める時に休め――自身が疎かにしているものを、銃兎は平然と他人に強いる。はこちらの良心が痛むほどの激務を早々と終わらせているのだから人よりも倍、口酸っぱく言っている。それくらい、男ばかりの職場に紛れて、女のはよくやってくれているのだ。そう言えば、彼女はきっと図に乗るのでこれは墓場まで持っていく所存だが。
 娯楽好きなのことだ。どうせ茶化しに行きたいだけに違いない。銃兎がそんな疑った目をに向けていると、彼女は地域安全課の人間に渡されたばかりの資料を流し見ながら、ぽつりとこう言った。

「一昨年の話ですけど、背後から男に襲われて、薬物を無理矢理吸わされた女子高生が依存症になって、今も精神病院にいるみたいですよ」

 銃兎は目を見開く。ちら、と見下げたは確信犯のようににま、と笑んでいた。

「せっかくの非番の日……未来ある子供たちに、現場の技をお披露目した方がいいと思いません?」


 ――閑話休題。事の発端を思い出した銃兎は改めて深い溜息をついた。遊びに行ったんじゃねえだろうな、と半信半疑だった銃兎がそう言うと、「なら実際に見ます? DVD、速攻焼いてもらったんですよ~」と帰ってきたに言われて冒頭……そして今に至る。
 とりあえず、遊びに行っただけではなさそうで一安心。警察官らしからぬ素行をして、うちの組対の顔に泥を塗られる危機は無事に去った。「それで……」

「いつまで着ているんですか。それ」
「それって?」
「制服ですよ。どうせ地域安全課の借り物でしょう。さっさと返却してきなさい」
「返却もなにも。これ、自前の制服なのでー」

 は今自分が着ているものを撫でる。銃兎が眉を顰めると、「母校の制服なんですよ~。可愛くないですか?」そう言いながら、は自信満々にプリーツスカートをひらりと揺らした。
 部署に帰ってきた時はいつものスーツだったのに、DVDとノートパソコンを手に持ってきたは、すでにこんな格好だった。黒のブレザーの真ん中で、青のリボンがとてつもない存在感を放っている。短いスカートによって、半分以上曝け出された太腿も目の毒だ。こうして見ると、街中でよく見かける今時の女子高生と何ら差異はなかった。
 百歩譲って、女子高生に扮してまで護身技を実演したのは、まあいい。ただ、これを見せるためにわざわざ着替えてやって来たことは理解に苦しむ。ただでさえ連日の夜勤で心身ともにが気が滅入っていると言うのに、そろそろ限界を迎えそうだ。

「あなた……自分の歳を考えては?」
「失礼ですねえ。わたし、まだ二十代前半ですけど~」

 十分苦しいんじゃないのか。しかし、まあ、そうは言いつつも、元来の幼さ――主に精神面での――が残っているせいで、この格好で歩いていても背伸びをした高校生と見られなくもない。味を占めたが、いつかその格好で潜入捜査に出向くと言わなければいいのだが。「それにしても……」

「こんな蒸し暑いのに、長袖で行ったんですか」
「わたし、元々長袖の制服しか持ってなかったんですよー」
「それ、ヨコハマでも随一の進学校でしょう。規定通りに着こなさなければいけないのでは?」
「でもあの高校、学力のわりに校則はかなりルーズでしたよ~? 勉強さえできていればあとは何もお咎めなしです」

 がなんでもないように言う中、銃兎はそういうことじゃない、と心の中で彼女を諭した。
 以前、医務室に運んだ時のの肌を思い出す。所々に出来た外傷を頭に思い浮かべてから、銃兎は意識するよりも前に、ブレザーの下に隠されたの腕に視線を走らせてしまう。数年前の彼女は、その下にどれだけのものを隠していたのか――そんな考えを持つよりも先に、「も~」とが明るい声を上げた。

「そんな辛気臭い顔しないでくださいよー。うちの学校の半袖、ちょーダサいんです。だから元々買わなかったんですよ。お金ももったいないんで」

 銃兎さんが気にすることは何もないですよ、と言わんばかりに笑む。その手は、すでにノートパソコンをシャットダウンしている最中だった。それも、今は場を持たせるためのものにしか聞こえず、銃兎は訝しげに眉を顰める。
 相変わらず、銃兎はに思考を見透かされている。わざわざそんなことを口に出すということは――と、無駄に勘ぐってしまい、どうしようもない。しかし、嘘だろうが実だろうが、がそう言いたいのなら、銃兎は素直にそう思うことにした。彼女にとっての地雷が、発せられる言葉のどこに転がっているか、未だに分からないものだから。変に口を出して、悲痛な現実を見ることもないだろうと。
 そう思っていると、が緩く腕を掴んできた。今度はなんだ。銃兎が冷めた目で彼女を見下げると、にこやかなと目が合った。

「……どういうつもりですか」
「制服を着た女の子とスーツの男性……。こうしてると、援交みたいじゃないですか?」
「おいやめろ。くっつくな」
「おにーさん、これからお時間あります? JK二年目、一回二枚でどうですか? あ、各種オプションは料金割増で――」
「リアルなやり取りもやめろ」

 そこまで言って、銃兎の思考が止まる。やけに馴れている言葉遣いを聞いて、怪訝な眼差しを向けようとするやいなや、はにへらと笑って、銃兎の腕からぱっと離れた。

「やだなあ銃兎さん。冗談ですよー。お金はなかったですけど、父親もわたしにお金せがんだことは一度もなかったので」
「信憑性に欠けるんですよ」

 「ほんとですってば~」おふざけとしか取れない声色で、はそう曰う。
 もしも、今のが高校生だとしたら。そうでなくても、高校生だったと今の自分が出会っていたとしたら。少しは、過去にいた彼女を救うことができたのだろうか。が今ここにいるのは、薬物のおかげ。そして、その下には何人もの犠牲の上に成り立っている。生きるために、薬物に守られながら生きてきた彼女が、切らずを得なかった人との繋がりを掴めるような未来を、自分はつくることができたのだろうか。
 ……そんな、イフの話を妄想してしまう。そのせいで、ほんの少し、情が乗ってしまった。銃兎は片方の手袋を外して、の頭頂部にぽん、と手を乗せると、彼女の目が明らかに丸くなった。しかし、それは指摘する暇もなく、すぐさまゆるく細められる。可愛くない女だ。

「……なんですか?」
「昔のあなたを労っていました」

 頭から感じる熱が手のひらにじんわりと伝わってきたところで、銃兎はさっと手のひらを離す。すぐさま手袋をするが、髪の感触や熱はいつまででもそこに居座っていて、すぐに自責の念に駆られてしまった。
 こころなしか、部屋の雰囲気もどこか重くなってしまった気がする。こういう時に限って彼女からの茶化しがないのだから空気を読んでいるのか、いないのか。ごほん、と銃兎はわざとらしく咳払いをして、何事もなかったかのように明後日の方向を見た。

「ほら、あなたはさっさとスーツに着替えてきなさい。元々、今日は非番だったんです。帰宅して早めに休息を――」

 むっすぅー
 そんなオノマトペが聞こえんばかりの表情。なんだその不服そうな顔は。初めて見るんだが。は頬を上げて、唇をつん、と前に尖らせている。まるで、休日に親と遊んでもらえない子供のようだ。ブレザーを着ているからか、普段以上にそう見えてしまう。
 今までのは、こんなにも目に見えて不満を曝け出すことはなかった。ということは、前よりもほんの少しはこちらに気を許すつもりになったのか。彼女の言いたいことは分かっている。それを指摘してやるのは簡単だ。しかしあいにく、こちらもいつも振り回されている仕返しをしたいのだった。
 銃兎がいつまでも涼しい顔でいると、さらに顔をむすっとさせたが痺れを切らして距離を縮めた。じとっとした目でこちらを見上げたは、変な形に曲げた唇を薄く開いた。

「……その労い的なもの、“今の”わたしにはないんでしょーか」

 ……満点には程遠いが、“可愛くない女”というのは撤回してやることにした。
 飴と鞭の使い分けは慎重にしなければならない。あまりいじめると数日間いじけるか、こんなことは二度とされないだろう。それは本意ではない。銃兎は短く息を吐いて、「……今夜、何が食べたいですか」と静かに尋ねた。
 すると、の目にぱっと光が灯る。「わたし、今日は中華の気分です~」そう言いながら、は嬉々としてノートパソコンを脇に抱える。そして、すぐに着替えてくる、と言いながら部屋を後にした。けろっと機嫌が直るまで一分もかからなかった。
 調子が良すぎる。これだからあの女は。まあ、ああいうのもたまには悪くない。も、後ろめたい気持ちもなく生き始めてまだ日が浅い。しかしこの具合だと、彼女が長年研ぎ澄ました不必要な武器を捨てる日は、さほど遠くないだろうと思った。