イノセンスが眩しくて



 事の発端に身に覚えがないといえば嘘になる。あれはたしか、俺の数少ない休みの日――ダイニングテーブルの前に座って、が作る昼食を待っていた時だった。
 その時に付いていたテレビで流れていたのは、和やかな情報番組。今回の話題は『“萌え”とは? “きゅん”とは? メイドカフェの実態を徹底解剖!』。ありがちなテロップがテレビの右上に添えられていて、舞台はメイドカフェ発祥の地であるアキハバラ。黒、ピンク、水色、赤、黄色――様々な色のメイド服を来た女性が入れ代わり立ち代わりで取材を受けており、彼女達の業務に密着している。
 客の要望に笑顔で答えるメイドはアイドルというか、天使というか、女神というか……そんな風に見てとれた。それに、こうして見てみると結構ハードワークなんだな。普通の飲食店よりも大変そうだ。中には、店内の簡易ステージでメイドが歌って踊ったりするサービスもあって、なんでもありなんだなあ、とぼんやりとしながら見つめていた。

「メイド……かぁ」

 その呟きに、意味などなかった。しかし、その時にちょうど洗い場から聞こえていた音が止んでいて、俺の声がリビングに響いた記憶は残念ながらあったのだった。水音を止ませたの耳にも届いていただろうなとは、ほんの少し思っていた。







 今日こそは駄目かと思った
 マンションのエントランスを潜るたびにそう思っているかもしれないが、今回ばかりは、本当に、冗談抜きで、駄目だったのだ。先日営業訪問のアポをやっとのことで取り付けたのに当日になってボイコットされ、ハゲ課長にはそれを自分の能力不足だと責任転嫁されて、とても散々な一日だった。申し訳程度に生き残っているあのバーコードを、ついに読み取れないレベルに引きちぎってやろうかとも思った。思っただけで、いつもの如く脳内だけで終幕したのだが。
 ……いや、いつまでもこんなことを思っていては駄目だ。俺は自身をポジティブな方向に鼓舞する。家に帰るまでに、なんとかしてこのもやもやを消化させなければ。というのも、いつぞやのテレビを見て、俺は心を入れ替えたのだ。“仕事の愚痴を家に持ってくる夫をどう思う”という街角アンケート調査で、“ムカつく”、“腹が立つ”、“家にまで仕事のことを持ち帰らないでほしい”と答えたご婦人が七割以上を占めていたのだ。俺はリビングで戦慄した。そんなの……これ、俺がに普段やっていることじゃないか。その時、キッチンに立つをおそるおそる見てみたが、彼女はとてもご機嫌な様子で新調したばかりのミキサーにコンセントを差そうとしているところで、テレビには見向きもしていなかった。ああ、泣きながら愚痴を吐いていた昨日までの俺も、あのマシーンの中に入ってぐるぐると回されて木っ端微塵に消えやしないか。無理だ。分かってるよ、そんなことをしても、過去にやったことは拭えないことくらい。俺は言葉にならない感情を抱きながら、頭を抱えるしかなかった。

 ――話が逸れてしまった。まあ、ここ最近は仕事と家庭はきちんと分別するようにして、家での口数も減らした。の様子も普段通りだし、内心きっと喜んでいるにちがいない。これで大丈夫なはずだ。
 そう思いながら、ゆっくりと開いたエレベーターのドア。ご近所さんを次々に通り過ぎ、廊下を歩く俺の足取りも軽い。玄関の前に着くと、いったん深呼吸して、俺はいつものようにマイホームの鍵を開けた。「たっ、ただいまっ」

「おかえりなさいませ。旦那さ――」
「失礼しましたッ!!」

 がちゃんッ!! 勢いよく玄関のドアを閉めてしまった。え……。えっ……? どうした俺。あまりにも疲れすぎてついに幻覚が見えるようになったか。
 今……メイドがいた。テレビや出先の道端でよく売り子をしている、あのメイドだ。しかし首から上がなぜかの顔だった。メイドが? がメイド? 意味が分からない。俺は非常に混乱している。
 いやいや落ち着け俺。……だったよな……? そうだったよな? 頭になんか……レース? みたいな被り物つけてたし……頭の上から足元までメイドだったけど、あれはどこからどう見てもの扮装によるものだった。それにしても一体どうして――

「旦那さま」
「うぎゃあッ!?」

 かちゃ、と開けられたドアの隙間からが顔を出した。俺は情けない声を出しながら、思わず一歩仰け反ってしまう。「それ、新しいエプロンか? 似合ってるな」「斬新な私服だな。どこで買ったんだ?」などと平然かつ天然ボケをかませたらよかったのだが、俺の心にそんな余裕はなかった。

「失礼しなくても大丈夫です。間違いなくここは独歩く――旦那さまのマイホームです」

 今、俺の名前言いかけたよな。いつものがちょこちょこと垣間見えることに謎の安心感を覚える。冷静になってきた頭がじわじわと現実を飲みこんでいって、俺はこわごわと息を吐いた。
 「まあまあ。込み入ったお話もございますので、ひとまず家の中へ」「あ……。は、はい」の一言で、まだ外にいることに気がついて、俺はようやく家の敷居を跨ぐ。
 そうして靴を脱ごうとした瞬間、廊下に上がったが体の前に両手を揃えて、ぺこ、と行儀よく頭を下げた。

「おかえりなさいませ。旦那さま」

 さっき、俺が遮ってしまった挨拶を、あたかも初めて言いましたという雰囲気では言った。毎日しているやり取りなのに、の服装が変わっただけでどこか気恥ずかしい気持ちになる。
 それでも、挨拶自体に罪はない。俺はごほん、とわざとらしく咳払いをした後、「た、ただいま……」と震える声で返事をする。すると、顔を上げたがほんのり笑顔だったので、「ふぇ……ッ」と変な声が出た。服装が変わっただけなのに、なんだこの胸の高鳴りは。おかしい、おかしいぞ。メイド服の力、恐るべし。
 ……あと、の旦那様呼びにときめいたわけじゃないぞ。絶対にないぞッ!







 ひとまずリビングに入って、「お手荷物をお預かりします」と言って手を差し出したに「お、おねがいします……」となぜか頭を下げながら鞄を預けてしまう。だって、今ののようでじゃない感が否めない。言葉遣いも特に丁寧だし。存在感がありすぎる服装のおかげで、というよりもメイドさん、という印象がしっくりきてしまっている。
 ひとまず……その格好について事情をきかなければ。俺の背中に回ってジャケットを脱がせてくれたに向かって、俺は口を開いた。

、その格好は……」
「メイドさんの服です」

 即答だった。まあそうだろうな。というか今のは俺の聞き方が悪かった。
 「ちなみに、わたしが今着ているこれはクラシカルタイプです」続けて、ジャケットをハンガーにかけ終えたは、ドレス部分の両端をちょっとだけ摘んで挨拶するように頭を下げた。完全にメイドに成りきっている。クラシカルタイプ……? ってなんだ? メイドにも色々種類があるのか? へぇ……。いやいや、感心している場合じゃない。

「そ、そのメイド服はどこで調達してきたんだ?」
「アキハバラです。初めて行きましたが、面白いものがたくさんあって楽しかったです」

 「ちなみに、独歩くんとの共同口座には手をつけていませんのでご安心を」そう付け足すに、いやそういうことじゃないんだ、と内なる俺が叫んだ。
 はイベント好きだ。ハロウィンの仮装も本格的だし、クリスマスには毎年ツリーを買ってくるし、リースだって手作りする。手先が器用で、ハンドクラフトが好きな――手元にじっと集中している彼女の姿は一日中見ていられるくらいに可愛い。
 なら、今日はなんの日だ? メイドの日か? それともコスプレの日? ぐるぐると考えていると、がほんの少し不安そう(に見える)眼差しで俺の顔を覗き込んだ。

「……この格好、変ですか?」
「すごく可愛いですッ!」

 いや、この際なんの日でもいい。そんな小さなこと、どうでもいいじゃないか。メイド万歳。俺の妻は今日も可愛い。仕事に打ちのめされて干からびた体に、の尊さという名のオアシスの水がじわじわと流れ込んでくる。最高か。が幸せなら俺も幸せだ。
 は目を丸くした後、そっと目を伏せた。ほんの少しだけ口角が上がっていた……気がする。それこそ、俺の幻覚かもしれないが。
 メイドのにぼーっと見とれていると、「……さて、」と、いつの間にか顔を上げていたが、俺を見上げながらこう言った。

「本日のおかえりなさいからのおやすみなさいまで、この格好でご奉仕いたします」
「ご、ご奉仕?」
「はい。ご要望がありましたらなんなりと。家にあるものでなるだけ叶えます」

 よろしくお願いします。旦那さま
 再び頭を下げた。マイペースなのことだ。今回のこれも、“なんとなく”で始めたかもしれないが、それにしても本格的な様子なので、何か意味があるのかとも思った。しかし、完全にメイドの精神になっている今のに聞いてもはぐらかされて終わるだけかもしれない。
 それに……せっかくだ。たまには(?)こういう日も悪くない。なんだか今日は異色の夜になりそうだ。淡い期待と下心を抱いている俺を宥めながら、「こちらこそ、よろしくお願いいたします……」と、俺は以上に深々と頭を下げたのだった。







 「まずはお風呂ですね」そう言ったは、俺を脱衣場に誘導した。いつもご飯にするかお風呂にするか聞いてくれるが、今日は先風呂の気分だった俺の心を見透かしたようにが言ったものだから、心の中で歓声を上げてしまった。これもメイドの力か。
 そう思いながら俺が呆然と突っ立っていると、タオルの準備をしていたがこう言った。

「お仕事ができるメイドさんは、言葉がなくても旦那さまの気持ちを汲むのです」

 少し茶目っ気に微笑んだ。今日はよく笑ってくれて嬉しい。そして可愛い。俺の心臓は爆発せずに明日の朝を迎えることができるのだろうか。

 「本日は、バリ島のスパが味わえるアロマを垂らしています」バリ島、スパ、アロマ……大富豪に向けるような台詞を言う。バリ島もスパも、今の今まで味わったことがな――いや、似たようなことはあるな。たまに一二三が、「今日の俺っちはちょ~頑張ったから自分へのごほーびっ」と言いながらすごーく高級そうな入浴剤を入れていた時があった。なんでも、有名なアジアンエステの独自メーカーのものだとかなんとか。俺も一二三の後でそれにあやからせてもらったが、あれは実によかった。俺にはその匂いが少しきつく感じたが、鈍感な俺でも肌がつるつるになった実感があったし、蓄積していた疲労もべりっと取れてその日の夜は珍しくぐっすりと眠れたのだ。
 そんなことを思い出していると、「どうぞごゆっくり。何かありましたらなんなりとお申しつけください」と言って、は静かに脱衣場のドアを閉めた。すっかりメイド口調が板についた彼女を見送って、俺は服を脱ぎ始める。そして、閉められた折りたたみ式の扉を開いた瞬間――

「お、おおぉぉぉ……ッ」

 そこは、たしかにバリ島だった。シベリアブルーの空、エメラルドグリーンの海、そしてまっさらに輝く白い砂浜――アジアンな空気をめいいっぱい吸い込むと、波打ち際の音すら聞こえてきた。すごい、なんだこれ。もしかすると洗脳系マイクといい勝負じゃないか。いや、直に食らったことはないんだが。
 湯船の縁にはきちっと整頓されたアメニティーが並べられており、おまけに防水スピーカーまで置かれていた。そのすぐ傍には、ラミネート加工された紙に書かれた文字が。“ご用があればここからお話ください”――なんとこれは通話機能付きらしい。最高か。というかこれ、がいつも使っているやつじゃないか……? 俺なんかのためにこんな時間に出張させてしまうスピーカーに対して申し訳なくなってしまった。
 いつもならひとまず湯船に浸かるところだが、なんだかもったいない気がして、髪と体を念入りに洗い、万全の状態になってから、聖水と化した湯に足のつま先をちょん、と付けた。

「あ゙ぁぁああぁぁ~~……」

 そこからはもう泥のように溶けて俺は湯船と同化した。肩まで浸かり、思わず親父みたいな声を出してしまう。いいだろこれくらい。俺ももう三十路手前だし。おっさんのカテゴリーに入れられたって構うものか。自暴自棄になっている思考回路を止めるものも誰もいない。俺の理性は玄関を潜った瞬間に営業終了したのだ。
 そういえば、なんか湯がしゅわしゅわしてるな……。小さな泡が俺の体にぴたっとくっついて、少し触ると水面までふわふわと上っていく。もしかして、炭酸効果もあるのだろうか。極上のご褒美すぎて意味が分からない。はどこまでこんな俺を癒してくれるのだろうか。もう一生ここから出たくないと思ったが、リビングではがきっとご飯の準備をして待っていると思い、時間を忘れない程度に俺はバリ島バケーションを堪能した。


 一皮どころか三皮くらい剥けた心地だ
 髪を乾かし、ほかほかと蒸気を帯びた体で廊下に出る。襲ってきた睡魔のおかげで中々湯船から出れず、そのまま下へ下へ沈んでいく感覚が数回あって、危うく溺死するところだった。あんなにも風呂に泥酔したのはいつぶりだろうか。おかげで疲労もストレスもすべて吹っ飛んで、空腹が顕著に感じられた。
 リビングに入ると、高級レストランのような匂いが部屋全体に漂っている。な、なんだこれは……。俺の知っている夕食の匂いじゃないぞ……。キッチンとダイニングテーブルを忙しなく行き来しているをじっと見つめていると、視線に気づいたがぴたっと手を止めて、俺に向かって丁寧にお辞儀をした。

「おかえりなさいませ旦那さま。お湯加減はいかがでしたか」
「最高でした……」

 思わず敬語で答えてしまう。「それはなによりです」そう言って、はシンクに置かれた大皿を両手に持って、テーブルの中心にごとりと置く。こんがり揚がった山盛りのそれがちらりと見えて、俺はその匂いに誘われるように、テーブルの前へ足を滑らせた。

「お……おおぉぉぉ……ッ!!」

 眩しい光沢を放つ白米、エビとポテトのグラタン、黄金に輝くオムレツ、彩り豊かなキャベツとトマトのサラダ、あとこれは……テールスープだろうか。薄いスープの中では油がゆらゆらと揺れており、大きな肉塊がずん、とした存在感を放って底に沈んでいる。そして、真ん中にあるメインディッシュはの十八番である鶏の唐揚げのフルコース。もも、胸、軟骨……これがまたビールと合うんだよな。想像しただけで、口内で唾液がじわじわと分泌された。
 「さあ旦那さま、こちらへどうぞ」椅子を出してくれたにぺこぺこと頭を下げながら、俺はおそるおそる椅子に座る。ぐっ、と椅子が引かれたかと思いきや、は流れるような手つきで水滴がついたビール瓶をかちんッ、と開けて、グラスに注いでくれた。綺麗な七対三だ。
 そして、注ぎ終わったグラスをテーブルの上に置いたが、「あっ」と不意に声を上げた。

「旦那さま」
「なっ、なんでしょうか」
「メイドさんの醍醐味である“あーん”はしますか? 美味しくなるための“おいしくなあれ”の魔法はかけますか? オムレツに好きな文字は書きますか?」
「ぅえッ!?」

 「魔法の振り付けも練習しました」両手をグーにして、それを左右に振るジェスチャーをする。それだけでもかなり癒されるのだが、彼女は少なくともうち一つはやる気のようだ。
 おいしくなあれの魔法って……あれだよな、よくテレビとかで見る、萌え……なんとかきゅんのやつだよな。それは明日の俺が羞恥で死にたくなるので、できるだけ避けたい(が魔法をかける姿を見たいというのは別ベクトルとして存在しているとは言っておく)。あとは、あーん、は……あり……か……? 今日の俺がストレスを限界を極めていて、人生をすべて投げたくなっていたらお願いしていたかもしれない。ただ、今の俺は風呂の後ということもあって比較的平常心だ。これも、明日になったら自己嫌悪で死にたくなりそうなのでやめた。
 考えに考えて、俺はぽつりとこう呟いた。

「じゃ、じゃあ……オムレツに文字だけ……」
「分かりました」

 「なんて書きましょうか。イラストも、簡単なものなら承ります」ケチャップを両手に持ったにそう尋ねられる。そういえば、が描いた絵って見たことなかったな。どんな感じなんだろう。ちょっと興味ある。
 「イラストのおまかせって、できますか」「はい。できます」はケチャップを両手に持って俺の目の前でさらさらと描き始めた。おお、なんだか手馴れている。これは動物か? 耳が二つあって、その下に顔、左右に髭が三本ずつ。なんとなく全貌ができてき――ん? んんん?

「え、えと……。……タヌキ、上手いな……?」
「犬です」
「えっ」
「犬です」

 「ちなみに柴犬です」満足気にそう言うに、俺は頻りに瞬きをしてしまう。オムレツの上に描かれたのは、猫とねずみときつねを足して三で割ったようなもの。俺なりに解読してタヌキと答えたのだが、どうやら違ったらしい。
 結婚生活云ヶ月目をもって、が画伯(曲解)だということが分かった。手先が器用だからてっきりイラストも上手だと思っていたが、誰しもそういうわけじゃないんだな……。の意外な一面をみてしまった俺は、出来上がったタヌキ……いや、柴犬を言葉もなく見つめていると、「やはり、旦那さまは美味しくなる魔法をご所望ですか」と言って、が両手でハートマークを作ったものだから、俺は思わず心臓を抑えて獣のように「ゔぅ……ッ!」と唸った。ふっ、不意打ちはやめてくれぇ……ッ!







 食休みが終わると、がオールハンドで全身揉みほぐしをしてくれた。体の骨が鳴るたびにが俺の背中の上で「おぉ」と控えめに歓声を上げるものだから、この疲労困憊した体もの役に立つんだなと思った。
 文字通り、身も心もすっかりご奉仕された俺。ソファーに座ってほわほわとした余韻に浸っていると、「お風呂、上がりました」とがリビングに入ってきた。さすがにもうメイドの服は着ておらず、いつもののルームウェア姿だった。「あ、」

「お風呂上がりのメイドさんの服装を調べるの、忘れてました」
「じゃあ……もう今日のメイド業は終わりか?」
「そうなりますね。独歩くん」

 「ご希望であれば、また着替えてきますが」と言うので、俺はやんわりと止めた。もう零時近いのに、こんな時間まで俺のためにを働かせるわけにはいかない。
 ――それよりも、だ

、今日はどうしたんだ?」
「どうした、とは」
「その……メイドブームみたいだから、何かきっかけでもあったのかなって……」

 すると、俺の隣にすとんと腰を下ろした。同じシャンプーを使っているはずなのに、の方が断然いい匂いがする。そんなことを思っていると、の口が小さく開いた。

「……この前までの独歩くんは、帰ってきた時に今日あったことを色々お話してくれていました」

 の言葉に、俺の目が点になる。お話? なんのことだろうか。というか、のメイドブームは俺が関係しているのか? 思わぬ変化球を投げられて対応に困っていると、突如、俺の脳裏に稲妻が走った。

「は、話ってあれか? クソなクライアントとハゲ課長の愚痴のことか?」
「……あれ、愚痴だったんですね」

 いやいや愚痴だろ……! むしろはなんだと思っていたんだ……!? 思わず声を上げそうになるも、「愚痴だろうとなんだろうと、独歩くんとの会話はわたしにとっては、ひっくるめて“独歩くんとのお話”なので」とに上手く丸めこまれてしまった。やっぱり、の感覚は常人と少しズレている気がする。いや、俺からすればそういうところもすごく魅力的なんだが……。「まあ、それはさておき」

「最近、そういうお話がなかったので、何かあったのかと思って。最初は独歩くんがお話できないくらい疲れてるかと思ってたんですが、仕事帰りでもひふみさんと電話している時は元気そうだったので、それもちがうかなと思って」

 にしては珍しく、喋り方が単調的になっていく。そして、「いわゆる、マンネリ化というものかと」と、はそう付け足した。
 マンネリ化――いわゆるマンネリズム。思考や行動などがワンパターン化し、新鮮さがなくなること……。つまり、俺がとの生活に飽きたと思われていたのか……?

「そんなとき、独歩くんがメイドさんの特集番組をじっと見ていたので、ああいうのが好きなのかと思って、今日に至ります」

 「いつもの日常にちょっとした刺激を。そう思ってた色々準備してきましたが、やはり本物のメイドさんには敵いませんね」他人事のようにさらっと言うの横で、わなわなと震え出した体は俺自身に怒りを覚えていた。何が“これでいいはず”、だよ。やっぱり、俺のやることなすこと、への害にしかなっていないじゃないか。堪らなくなった俺は、自身に怒鳴る勢いでわっと口を開いた。

ッ」
「はい。です」
「それはっ……つまらない話ばっかりする俺が勝手にに遠慮しててッ……。との暮らしに飽きたとかっ、そんなの、絶対にないからっ……!!」

 ぽかん。が小さく口を開けて、丸くなった目で俺を映す。それが、ゆるりと柔く細められるまで、そんなに時間はかからなかった。

「……よかった」

 の微笑を見た瞬間、脳からどばっと何かが流れてくる感覚があった。なんだこれ、幸せホルモン? なんでもいいが、今ので俺の体の中にあった毒素が完全に抜け落ちる。のこの表情一つで、世界を救えるんじゃないかと本気で思った。少なくとも俺の世界は現在完了形で救われた。

「ふ、不安にさせて、ごめん……っ。これからはちゃんと仕事以外の話もするから……!」
「義務にすると独歩くんが大変なので、ご無理なさらず。それにメイドさん生活もなかなか面白かったので、結果おーらいです」

 「また機会があれば着ます」そう言って、はまた微笑む。メイド服がなくたって、俺にとってはといる時間の一分一秒が尊ぶべきものだ。俺が言うのもなんだが、ももっと自分に自信をもってほしい。は、世間一般的にみても、俺にとっても、良妻そのものなのだから。
 でも、まあ……のメイド姿が見たくないことはないから、が気が向いたらぜひ着て頂きたい――というのは、胸の奥にひっそりと仕舞っておいた。