ほどけない海のかたわらにて
「このあいだ言った通り、今日はモデルの子たちが来るから準備しておいてね~」
ほーい。へーい。りょーかいでーす。スタッフたちの緩い声に混じって、「はあい」と江麻も朗らかに返事をした。
本日はお店の臨時休業日――そんな日にフルメンバーが出勤しているのには理由がある。呉服店のパンフレット作りだ。お店の宣伝として一役買っているパンフレットは季節の変わり目ごとに新しいものに替えており、今日はその撮影日。毎年、新作の着物をスタッフが着て撮影することになっているが、今年はなんとモデルを雇ったらしい(どや! と言わんばかりのオーナーの誇らしげな顔が今でも忘れられない)。そのため、身内だけでこなす撮影とは違い、準備に一手間がかかるので、普段はカフェスタッフである江麻も撮影の準備に駆り出されていた。
普段は浴衣か着物を着ているからか、動きやすい私服で店内を歩き回るのは新鮮な気持ちになる。そんな中、皆がてきぱきと動いて、自分たちのやるべきことをこなしている。
「(わあ~っ。すごーいっ)」
オーナーを筆頭に、すでに呉服店の空きスペースには小さなスタジオができていた。壁と床はホワイトのスクリーンに覆われており、その周りにはドライフラワーやアンティーク調の椅子などの小道具が並べられている。
今回のモデルはどうやら外国人らしい。オーナーの知人のカメラマンとともにやって来るらしく、約束の時間も迫っていた。お客人の案内係兼お茶出しは自分の担当なので、少し……いや、かなり緊張してしまう。英語しゃべれんけど大丈夫かなぁ……という心配が絶えず、昨日の夜もあまり眠れなかったほどだ。
「こんにちは~」
そうこうしているうちに、半分閉まっているシャッターから誰かくぐってきた。
「こんにちはー!」と店内のスタッフたちが挨拶を返す中、奥から大きな足音がばたばたと聞こえてくる。
「おスズぅ~っ! 久しぶりぃ~っ!」
どすッ、と重たい音と一緒に女性が軽くよろける。彼女に抱きついたオーナーにびっくりした江麻は目を見開いた。カメラマンとは昔馴染みと聞いていたが、この光景を見る限りかなり親しい仲なのだろう。
「痛いわオーナー」“おすず”と呼ばれた彼女はオーナーをひっぺ剥がす。そんなオーナーにちょいちょい、と手招きをされ、江麻は駆け足でオーナーの隣に並んだ。
「モデルの子たちのお世話係の江麻ちゃんよお」
「よ、よろしくお願いしますっ」
「カメラマンの鈴よ。今日はよろしくね」
挨拶とともにスマートに名刺を渡されて、わあぁ、と感動に浸る江麻。鈴の名刺を両手で受け取ったあと、それをポケットに仕舞いながら、おうちに帰ったらひとやさんの名刺と一緒に大事に仕舞っとかんと、と思った。
「なにをにやけてるの?」そんな鈴の声にはたとする。見れば、オーナーが江麻と鈴を交互に見ながら、にまにまと笑っていた。
「江麻ちゃん。この女の人、見覚えなぁい?」
鈴の背後に回り、彼女の両肩に手を置いたオーナー。次に、「おスズも見覚えなぁい?」と後ろから彼女の顔を覗き込んでいる。江麻は首を傾げ、鈴もまた不思議そうな顔をしている。
すると、オーナーが鈴の耳元でこそこそと何かを囁く。江麻がぱちぱちと瞬きをして二人を見守っていると、鈴の目が徐々に見開いていき、涼しげだった表情が驚愕の一色に染まった。
「えっ!? うそ! あのときの女の子なの!?」
「そーなのよぉっ! あたしたちも歳とるわけよねえ~っ!」
鈴は興奮したように大きな声を上げて、オーナーはけらけら笑いながら彼女の背中をばしばしと叩いている。一人だけ状況が飲み込めていない江麻は「オーナー……?」と不安げに助けを求めた。
「江麻ちゃん。“初めて”お店に来たときのこと、覚えてる?」
オーナーの言葉を聞いて、江麻は疑問に思いながらも昔の記憶を巡る。高校を卒業してこの店に入社したとき、高校に入りたての頃にバイトの面接に来たとき――初めて、のワードを頼りにして、さらに過去へと遡った。
――「どうしたの?」
不意に、張り巡らせた糸に引っかかった声。あのとき――とある雨の日、生まれて初めて味わう痛みと不安と心細さに寄り添ってくれた……きれいで、やさしいおねえさん。
意識は朦朧としていたが、その存在ははっきりと覚えている。埃を被っていた記憶がみるみるうちに鮮明になっていって、過去の彼女と今目の前にいる彼女のピントが合ったとき、江麻もわっと目を開いた。
「そっ、そのせつはお世話になりましたっ!」
「いいのよいいのよ。こちらこそ、このお店で働いてくれてありがとう」
ぺこぺこと頭を下げる江麻を目の前に、鈴は穏やかに言った。そして、「大きくなったわねえ」とまるで本当の姉のような優しい眼差しを向けてくれている彼女に、江麻はあの頃の幼心がきゅんと縮こまる。自分が猫であったなら、今頃鈴に向かってお腹を見せていたことだろう。
おスズもとい鈴はお店を辞めて東都に行った、と以前オーナーから聞いていたが、まさかまた会えるとは思っていなかった。今この瞬間までオーナーから鈴の話を一言も聞いていなかった分(おそらくサプライズのつもりだったんだろう)、なかなか興奮が冷めやまない。
憧れのお姉さんのような存在である鈴に見惚れていると、また一人シャッターをくぐってきた人がいた。すらりとした手足と華奢な肩……店の敷居を跨いだ彼女はゆっくりと腰を上げながら、艶やかな黒髪をそっと耳にかけた。
そんな彼女とふと……視線が交わる。
「……あ」
「あっ!」
本日二度目の、思いがけない再会。小さく声を上げた彼女に向かって、江麻はもう一度頭を下げることになった。
「海ちゃーん。少しだけ視線逸らしてくれるー?」
ピピッ。カシャッ。ピピッ――設営したスタジオで撮られているのは、新作の着物に身を包んだ女性モデル。そこから少し離れたところで撮影の見学をしている江麻は、彼女にうっとりと見とれていた。
以前、家の前で体調を崩していた女性――海燕が、今回のモデルだったとは知らなかった。すでに他人以上の関係になっている江麻が、「あれから体調はどうですか?」と海燕に聞くと、彼女は少し目を伏せてから、「おかげで、とてもいい。ありがとう」と薄く微笑んで言われた。
どうやらあの時はご祈祷に来たようだが、彼女の笑顔を見ていたら、悩みは解決したのだと思った。今もこうして、クールな表情でポージングをしているところを写真に収められている。表情といい、所作といい、雰囲気といい……目に入るものすべてが――
「きれい……」
「ああ。海燕はとても綺麗だ」
不意に、聞きなれない男の人の声が聞こえてくる。横を向いても誰かの体があるだけだったので、江麻は上を見た。思っていた以上に高いところに顔があり、その巨体の男は海燕がいる方をまっすぐ見つめている。
そして、男の視線がふっと下にいく。突然目が合って江麻がびくっと体を震わせると、彼は少しだけ前かがみになった。
「すまない。驚かせてしまったか」
地面をなぞるような低い声。しかし声色こそ柔らかかったので、江麻の中で生まれたのは驚きだけで、恐怖はなかった。
低身長がゆえに誰かに見下ろされることは常だが、こんなにも身長差のある人と話すのは初めてだ。口をぽかんと開けながら、江麻は思わず独り言を漏らした。
「塔みたい……」
はっとする。自分で言ったことが頭の中に余韻として残っており、江麻は慌ててぺこぺこと頭を下げた。
「す、すみませんっ。失礼なこと言っちゃって……っ!」
「気にすることはない。昔、君のような小柄な日本人にも似たようなことを言われたことがある」
平坦な声で男は言うと、再び背筋を伸ばして立つ。彼からすれば、ほとんどの人は小柄に見えるだろう。ほんとうに気にしてないんかな……? と江麻は男を見るが、すでに彼の視線は海燕に注がれていた。
毒島メイソン理鶯――鈴曰く、仕事としてモデルをやっているわけではないが、諸事情によりメンズモデルを手配することができなかったので、臨時で雇った人らしい。彼は日本人とアメリカ人のハーフらしく、ほんとうに本職じゃないの? と疑ってしまうほどの美男子だった。
ハーフの人と話したことがない江麻がどう呼ぼうか迷っていると、「理鶯でいい」と先に彼に言われた。
「りおうさんは、ここにいても大丈夫ですか……?」
「あぁ。スタンバイする位置はどこでもいいと言われている。それに――」
理鶯は海燕をじっと見つめながら、「目の前に小官がいると気が散ると言われてしまった」と言う。誰に、と聞かなくても察しがついた江麻。どことなく寂しそうに聞こえたのは気のせい……ではないかもしれない。
あまりにも真剣な眼差しで海燕を見つめている理鶯を、江麻は見上げる。自分が撮られにきたのか、それとも撮られる海燕を見に来たのか――目的があやふやになるほど、彼の眼差しはとても真剣なものだった。
理鶯もそうだが、自分も同じくらい彼に見入っていたらしい。「小官の顔に何か付いているか」とまた視線が落ちてきた。ぴゃッと体を跳ねさせた江麻は首を横にぶんぶんと振った。
「り、りおうさんは普段はなにをされてるのかなぁって……っ」
なんとなく見てました、と言うのは失礼な気がして、江麻は即席で質問をつくった。
すると、「普段は森の中でサバイバル生活をしている」と理鶯は答える。意外な単語が出てきたので、江麻は目を丸くした。
「サバイバル?」
「あぁ。いつ何時軍が再興するか分からない以上、元来の生活水準を崩してはならないという小官の判断だ」
軍、という単語を聞いて、理鶯は江麻の知らない世界からやって来た人なのだと理解した。しょうかん、という一人称も初めて聞いたものだったので、江麻はおそるおそる尋ねてみる。
「りおうさんは軍人さんなんですか……?」
「いかにも」
そうなんだぁ……。今まで会った人の中で軍人がいなかったため、どういう反応をしていいか分からないでいると、「怖いか」と理鶯に言われる。「そんなことないですっ」と江麻は首と手を振りながら全身で否定した。
「そんなふうには見えなかったので、びっくりしちゃって……」
「そうか。普段とは格好が違うせいもあるかもしれない」
聞くところによると、今日は鈴が用意してくれた洋服を着ており、普段は森にも紛れる迷彩柄の軍服を身につけているらしい。江麻はヘルメットを被って、長い拳銃を持っている人が草陰に隠れている光景をイメージした。
軍人、という単語ですら創作の物語でしか聞いたことがないため、江麻の中にある軍人のイメージを頭の中で次々と並べてみる。髪は短く切り揃えられていて、はきはきとした声で話して――実際にそんなようなことを言うと、「なるほど」と理鶯は頷いた。
「おそらく、日本軍のイメージが強いのだろうな。小官は米軍所属なので、さほど堅苦しくはない。所属によっては、任務に支障をきたさなければアクセサリーの装着も許されている」
「今日付けてるピアスとか、ペンダントもですか?」
「あぁ。しかし、このペンダントはアクセサリーではない」
理鶯は首に提げていたペンダントを外す。着物を身につける際には、元々付けていたアクセサリーは外すように言われていたが、これだけはどうしても、という本人の希望があり、ペンダントだけは付けたままの撮影になる予定だった。
そして、外したペンダントが江麻の手のひらの上に落とされる。一見、普通のペンダントのように見えるが、元々シルバーの光沢を帯びていたはずのそれは、摩擦や年月によって少々くすんでいる。プレートに書かれている文字を解読しようとするが、江麻は一部しか読むことができなかった。
「りおうさんの名前が書いてあります……」
「あぁ。それはドッグタグといって、小官の所属や出身地が彫られている」
「軍人の識別番号のようなものだ」と理鶯は淡々と言う。ものに対して使う単語を人を指す言葉として使っている彼にひやりとした印象を受けて、江麻の心に動揺が生まれた。
「戦地で小官が殉職し、誰かがこれを拾った際に小官の身元が分かるようになっている」
「じゅんしょく……?」
「任務中に命を落とすことだ」
いのちを、おとす。
ついに体全体が水に浸されたように冷える。重々しい言葉にどんな顔をしていいか分からず、江麻は逃げるように俯いてしまった。それを察したのか、「……すまない」と静かな謝罪が聞こえてきた。
「一般人に話すことではなかったか」
「ち、ちがうんですっ。わたしから聞いたので、そんな……っ」
言葉の数が足りず、上手く気持ちを言い表すことができない自分自身が嫌になってしまう。事故や事件、病気以外で命を落とす人がいることに対して現実味が帯びず、江麻はあの、その、とどもってしまうばかりだった。
「リオくーん! そろそろ準備おねがーい!」
そんな時、遠くから鈴の声が聞こえる。助け舟が流れてきた気持ちになってしまった自分に、じくりとした胸の痛みを覚えた。
すると、「どうか気にしないでほしい」と江麻の心を汲み取った、優しい声が落ちてくる。
「昔は自国を守ることだけが誇りと思っていたが、他人と関わっていくうちに考え方が変わった」
「考えかた……?」
「あぁ。何かを追いつめ、傷つけるためではない。大切な人間を守るために、小官は海に出て、銃をとる。小官とて、無意味な争いは好まない」
江麻の手からペンダント……否、ドッグタグを拾い上げた理鶯は、それを首からかける。その時、私は彼の首にかかっているべきものだと言わんばかりに、ドッグタグは照明の光に反射して鈍く光った。
「平和は享受するに越したことはない。君のような人間を外敵から守るために、小官を始めとする軍人がいるのだ」
凛々しく微笑んだ彼が言った言葉からは、江麻一人では到底計り知れない意思の強さを感じた。
理鶯が鈴の元へ歩いていく後ろ姿を見ながら、江麻は思う。彼と繋がっている糸の先にいる人のことを。家族や友人、特別な人のことを。もしも彼に何かあれば、その中にいる誰かが悲しむ未来が必ずある。そしてそれは、彼自身の命を奪った誰かにもきっとあるものだ。
思うことがたくさんあって、考えることもたくさんあって――空却くんならどうするだろう、と彼の顔を思い浮かべながら、答えのない問いを頭の中で転がすばかりで、江麻は複雑なこの気持ちを飲み込めずにいた。
あっという間に半日が経ち、お昼時になった。
撮影は当初の予定よりスムーズに進み、「日が暮れる前には終わりそうだわあ~」とオーナーは話していた。夜になってもいいから撮影し続けたいと声を上げるスタッフもいたが、それについては江麻も同意見だった。新しい仕事をするのももちろん楽しいが、それよりも――
「(二人とも、すごくお似合いだったなぁ……)」
モデルの二人の顔が良い。
スタッフたちが何度も盗み見してしまうほど、二人の立ち姿が常人離れしている。ツーショットを撮っていたときもあちこちで歓声が上がっており(もちろん、江麻もその内の一人だ)、美男美女という言葉は彼らのことを指すのだと思った。
「江麻ちゃーん。そろそろ賄い食べるー?」
「あっ。食べます~っ」
キッチンから飛んできた先輩の声に返事をする江麻。「ついでにモデルのお二人にもなにがいいか聞いといて~」と続けて言われたので、そのまま喫茶スペースにいる二人のところへ向かった。
「撮影中、ずっと近かった」
「鈴にもっと近づいてほしいと言われたので、小官はその指示に従っただけだ」
するとそこでは、ちょうど二人が向かい合いながら何か話をしていた。険悪なムードではなさそうだが、穏やかとも言えない空気感だ。立ち聞きはあまりよろしくないと分かっているものの、大事な話をしている時に割り込みをするのもよくないと思い、江麻はその場で立ち止まり、様子を見ることにした。
「体に触れてとは言われてない」
「触る前に、触れてもいいだろうか、と海燕にも了承をとったはずだが。『早くして』と返事をもらったのは小官の幻聴だったのだろうか」
「あ、んな耳元で言われたら……嫌と言えないでしょう……」
「耳元? 近い方が聞こえやすいと思い近づいただけだが、それが原因だったのか」
そして、「まさか」と理鶯が何か閃いたように目を開いた。
「普段よりもリテイクが多いと鈴が言っていたのも、小官のせいだろうか」
「そ、れは」
「顔が強ばっているとも言われていたな。慣れない土地で緊張していたと思っていたが……まさか小官のせいだったとは」
……揉めている、のだろうか。これは。理鶯は物腰柔らかく話しているように見えるが、今しがた海燕が口ごもって俯いてしまった。「海燕?」と理鶯が顔を覗いても、背を向けてしまっている。海燕は男性が苦手だと鈴が言っていたので、もしかしたらそのせいもあるかもしれない。
海燕さん、困っとるんかな……? 異彩を放つ二人のそばに行くのは緊張するが、江麻は意を決して二人に近づいた。
「あのぅ……」
理鶯と海燕が同時に江麻を見る。そして二人同時に顔を少し下げるようにして前のめりになった。十四もそうだが、高身長の人と話すときに相手がこうしてくれることに対していつも申し訳なくなってしまう。
「スタッフのみんなはそろそろお昼ごはんにするんですけど、お二人はお腹すいてますか?」
そう言うと、理鶯が海燕に目を配らせる。彼と目が合った海燕がすぐさま江麻を見下げて小さく頷いたので、江麻はにっこり笑った。
「今日のまかないはパスタなんです。このページからお好きなの選んでください」
江麻は持っていたメニューをぱっと広げて、パスタのページを開く。喫茶店のメニューは数こそ少ないものの量は多く、味もパスタ屋さんのものと謙遜ないくらい美味しいのだ。
二人にメニューを見せてから、改めて彼らとかなりの身長差があることに気づく。江麻は二人が見やすいようにと、メニューを支えている両腕をぐっと伸ばした。
「その体制を維持するのは辛いだろう」
そう言いながら、理鶯は江麻の手からメニュー表を受け取ってくれる。「あ、ありがとうございます……」と恥ずかしくなった江麻は小さな声でお礼を言った。
そして、当たり前のように理鶯は海燕の方にメニューを傾けて、海燕もまた理鶯側に体を寄せてメニューを見ている。すごく絵になるなぁ……と江麻が二人に見惚れていると、「エマ」と海燕に名前を呼ばれた。
「テッパン、ナポリタン……って?」
「鉄板ナポリタンは、鉄板の上に薄い卵を敷いて、その上にナポリタンを盛りつけてあるんです」
江麻の本日の賄いでもある。すごくおいしいですよ、と付け足すと、「なら、それにする」と海燕が言う。「では、小官も同じものを」と理鶯が続いた。
「お飲みものはどうされますか?」
「水だけで、平気」
「同じく」
江麻は笑って、「すぐにお持ちしますので、空いているお席にどうぞ~」と促した。今日は二人以外のお客は誰もいないので、日当たりの良い窓側席でもホールの角席でも、どこでも座りたい放題だ。
オーダーを頭に入れた江麻はキッチンに向かう。スタッフ全員分の賄いを作っている数人のスタッフに向かって、「オーダーです!」と江麻は声を張った。
「ナポリタン二つ、お願いします~」
「はいよー。江麻ちゃんのできとるから先食べちゃいなー」
先輩スタッフにお礼を言って、すでにカウンターに用意されていたお盆を持った江麻。ナポリタンの上にかかっている粉チーズの匂いに食欲をそそられながら、一番乗りで休憩室に入った。
部屋の中心に置かれているテーブルの上にお盆を置いて、ウォーターサーバーから紙コップへ水を注ぐ。ふかふかのソファーに「よいしょ、」と腰を下ろすと、午前中からずっと立ちっぱなしだった足がようやくほっと一息ついた。
「お腹すいたぁ~」
誰もいないことをいいことに、江麻は独り言を言いながら顔を綻ばせる。食べる前から舌が踊ってしまっているのも、お店で一番人気の鉄板ナポリタンが久々に食べられる嬉しさゆえだ。
「いただきまあす」パスタをフォークにくるくると巻き付けると、下に敷いてある薄焼き卵と玉ねぎも一緒に巻き込まれる。最後に少しおこげがついたウインナーをぷすりと刺して、思った以上に大ぶりになってしまったそのひと口をぱくんと口の中に入れた。
「(おいしい~っ!)」
フライパンでしっかりと煮詰めたケチャップからは独特の旨みが滲み出ており、細めのパスタとよく絡んでいる。隠し味としてバターが入っているらしく、酸味が抑えられたマイルドな味に仕上がっていた。玉ねぎの食感やウインナーの肉々しさ、そして卵の優しい味わいも良い引き立て役になっている。半分くらい食べたところで追って粉チーズをかけると、さらに味に深みが出た。
今日は私服なので、着物を汚す心配もない。人目を気にせずに大きく口を開けて頬張る江麻は、にこにこ笑顔を浮かべながら夢中でパスタを食べ進めた。
鉄板ナポリタンを食べ終えて、軽くなったお盆と一緒にホールへ戻る。すると、ちょうど二人分の鉄板ナポリタンが出来上がったとのことだったので、江麻はさっそく届けに行くことにした。
二人が座っているのは窓際のソファー席。特に会話もせずに無言だった二人に「おまたせしましたあ」と声をかけると、海燕と理鶯は同時にこちらを見た。
二人分の鉄板ナポリタンを置いて、カラトリーケースを席の手前に寄せる。出来立ての鉄板ナポリタンの近くに手を添えながら、「鉄板、すごく熱いのでお気をつけください」と一言付け足した。
「ほう」理鶯が鉄板ナポリタンを興味深そうに見ている。そのまま江麻がにっこり笑って立ち去ろうとしたところに――
「エマ」
「はい!」
「ここにいてほしい」
そう言いながら、海燕が有無を言わさない雰囲気で江麻を見つめるものだから、少し体に力が入る。海燕さん、やっぱりすごく美人さんだぁ……じゃなくて、おじゃまじゃないんかな……? 理鶯の方をちらっと見るが、彼は何も言わずにナポリタンをじっと見ているだけで、特に何か言われる気配はなかった。
次に、なにか手伝うことはないかとキッチンの方を見ると、先ほどの会話が聞こえていたらしい先輩が両腕を使って大きく丸を作っている。“こっちは大丈夫”というメッセージを受け取った。
心優しい先輩に向かって小さく頭を下げて、「それじゃあ、しつれいしますね」と一言断り、江麻は海燕の隣に座った。
「それでは、馳走になろう」
「いただきます」
その後、二人は黙々とフォークとスプーンを手に取る。やはり、二人の間に会話はない。ちょっと気まずい……? と一瞬思ったが、元々言葉数の少ない二人に見えるので、そこはあまり気にしなくてもいいかもしれない。
お口に合うかなあ、とどきどきしながら見守っていると、うむ、とナポリタンを一口食べた理鶯が大きく頷いた。
「とても美味だ。具材もシンプルで、アレンジがききそうなのがとても良い」
「ありがとうございますっ。作ったスタッフに言っておきますね」
すると、隣の海燕からも「おいしい」と言われて、作った本人ではないが、江麻は自分のことのように頬を緩めた。えへへ、二人にほめられちゃった。
粉チーズをかけるともっとおいしいですよ、と声をかけたその後も、二人とも無言で食べ進めていく。キッチンの方もひと段落ついたのか、奥から賑やかな話し声が聞こえてきて、江麻も自然と口を開いていた。
「撮影が終わったら、みなさんでどこかに行かれるんですか?」
「分からない。余った時間は自由に使っていいと鈴に言われているが、特に予定はないな」
「そうなんですかぁ」理鶯の言葉に相槌を打つ江麻は、せっかくだからナゴヤを見て回ってほしいなぁ、と思う。人がいるところが苦手ならば、自然豊かな大公園に行ってもいい。
お二人はどういうところが好きかな、と探りを入れようとしたところで、「ところで、」と先に理鶯が口を開いた。
「このあたりに海はあるだろうか」
「海ですか? 地下鉄に乗れば、港がありますよ。近くに水族館もあるので観光スポットになってます」
「そうか」
すると、理鶯が海燕を見る。視線に気づいた海燕がナポリタンから顔を上げるが、やはり彼女はすぐに目を伏せてしまった。まるで避けるような所作だったが、目の前にいる理鶯はほのかに笑っている。
「海燕」
「行かない」
「せっかく知らない土地に来たのだから、周辺を見て回るのも悪くないと思うが」
「私はスズのそばにいる。行きたければ、リオ一人で行ってきて」
「海燕さん、海はお嫌いですか……?」
江麻も思わず口を挟む。すると、海燕は驚いたように江麻を見て、「そうじゃ、なくて……」と口をどもらせた。
「海燕は海が好きだ。彼女の故郷にも海があった」
「そうなんですかあっ」
「リオ」
「すまない」
海燕がワントーン低い声で理鶯の名前を呼ぶ。理鶯が謝った意味が分からず、江麻が二人を見比べていると、再び彼が口を開く。
「海燕は恥ずかしがり屋さんなので、小官があまりものを言うとあとで叱られてしまうのだ」
「闭嘴」
「分かった。黙ろう」
テンポの良い会話を聞きながら、お二人は仲が良いんだなあ、と江麻はほのぼの思う。それはそれとして、もしも海燕がよかったら、鈴と三人でナゴヤ港に行ってきてほしい。江麻自身、水族館は小学生の頃に遠足で行ったきりだが、水面の反射が床に映ってとても綺麗だった記憶がある。もちろん、水の中に住む生き物もみんな愛らしかった。
海燕さんも行かないかな、と江麻がじいっと見つめていると、誰かの足音が近づいてきた。
「あら。もうすっかり仲良しね」
鈴の声だ。江麻が振り返ると、バインダーを片手に穏やかな目で自分たちを見つめている鈴が立っていた。
そして、テーブルに置かれた鉄板ナポリタンを見て、「わあっ。これなつかし~。私もあとで作ってもらおうかしら」と声を弾ませて言った。鈴のような大人っぽい人が鉄板ナポリタンを見て顔を綻ばせているのを見ると、そのギャップで江麻の胸がきゅんとする。
「海ちゃんとリオ君。午後からもあともう何枚か撮らせてね。私とオーナーも今からお昼ご飯にするから、それまでゆっくりしていて」
「わかった」
海燕が静かに言う。その正面で、理鶯も無言で頷いていた。「それから、」
「撮影が終わったら、少し遠出するわね」
「とおで?」
「えぇ。ミナミチタっていう海沿いの町に美味しい定食屋さんがあるの。宿泊施設もあるから、海鮮を食べて、温泉に入って、明日の朝、東都に帰りましょう」
「ヨコハマ以外の海も、悪くないでしょう?」そう言って、鈴はいたずらっぽく笑う。海燕が気まずそうに目を逸らしているのを見ながら、もしかして、さっき話してたの聞こえてたんかな……? と江麻は密かに思った。
「スズが……そういうなら」
「ふふ。決まりね」
二人は仕事仲間らしいが、なんとなく鈴の前だと海燕が小さく見える。鈴自身から溢れる包容力にたじたじ、というのか、なんというのか。とりあえず、海燕が鈴を信頼していることだけは分かった。
「あと海ちゃん。江麻ちゃんもきっと忙しいだろうから、お守りにするのもほどほどにね?」
「おまもり……?」江麻が不思議そうにそう呟くが、「それじゃあ、江麻ちゃんもまたあとで」と鈴はウインクをして、その場から去っていってしまった。昔と変わらず、綺麗で、優しくて、素敵なお姉さん。歩き方さえ洗練されていて、その後ろ姿を見ていたら、先ほどの意味深な言葉などすっかり忘れてしまっていた。
海燕と理鶯が食べ終えたお皿を下げて、江麻はキッチンのアシスタントに回る。席を離れる時、海燕が名残惜しそうな顔をしていたが、最後には小さく手を振ってくれた。
ついさっきオーナーと鈴が食器を片付けに来たので、そろそろ撮影が始まる頃合いだと思った江麻。まだテーブルにいるであろう二人を呼びに行こうとホールへ行くと、ちょうど理鶯が席から立ち上がっていた時だった。
あ、よかったぁ。江麻が二人を見守っていると、海燕が椅子から立ち上がったときにがッ、と床から鈍い音がした。
「(あッ……!)」
テーブルの足につま先を引っ掛けてしまった海燕が、ぐらっとよろけてしまう。
間に合いそうにないと思いながらも、江麻が駆ける寸前。今までゆったりとした動作をしていた理鶯が、俊敏な動きで海燕のそばに寄る。理鶯の腕が海燕の腹に回り、肩を引いて、倒れかけていた彼女の体を地面と垂直に戻す。あっという間に危機は去り、ゼロ距離になった二人に対して、江麻は映画のワンシーンを見たかのような胸の高鳴りを覚えていた。
「(わあっ……! わああぁぁ……ッ!)」
心の中で黄色い声を上げる。もしかして……もしかして、二人はそういう……いわゆる、“そういう”仲なのだろうか。
江麻は声が漏れないように両手で手を抑えながら、目をきらきらと輝かせる。傍観していた江麻でさえ顔が火照っているのだ。実際にあんな紳士的なことをされた海燕の心情は計り知れない。
「大丈夫か」
「……えぇ。あり、がとう」
「ところで海燕。そろそろ口を開いてもいいだろうか」
「……もう話してるでしょう」
「先程の話だが、鈴が気を利かせてくれたようだ。海に行けることになってよかった」
「私は、べつに……」
「楽しみだな」
理鶯は今、自分には見せなかった、とても穏やかな表情をしている。あれはきっと海燕だけに向けるものだと、すっかり乙女思考に染まった江麻は思った。あの距離感はアメリカでは普通のことなのかもしれないが、それとはまた別の理由があることは見ていて分かる。りおうさん、きっと海燕さんのこと――。
江麻が恋愛脳になりそうなところで、海燕が理鶯からさっと離れてしまう。「スズが待ってる」と短く言うと、彼女はすたすたとスタジオの方に向かってしまった。そんな海燕の後ろを、理鶯は涼しい顔で追っている。
一気にドライになってしまった空気だが、江麻の中ではあの光景の余韻が冷めない。すごいものを見てしまった、と頭がぽやぽやとする。お世話係に任命されている江麻だが、しばらくは二人だけの世界を壊さないように、再びキッチンに戻っていった。
