まほろ新星、夜は来ずとも遠からず
お盆と年末年始を除いても、花代子は月に一度、ヨコハマの実家に顔を出している。やることとしては、多忙な父のために家の掃除をしたり作り置きを作ったりと、普段やっていることとそう変わらない。父と二人暮らしをしていた時も、家事全般は自分が担っていたし、海燕が同居するようになってからは女二人で分担してこなしていた。父も、家事が全くできないことはないが、なにせあまり家に帰れない多忙な警察官……自分達がルームシェアをしてからも、こうして時折様子を見に行くようにしていた。
――今日もそのつもりで、ヨコハマ行きの電車に乗っていたのだが。
「(寝過ごしたあ~ッ!)」
やってしまった、と花代子は降りた駅のベンチに座って頭を抱える。特段疲れていたわけではないが、電車の座席に座ってからそれはもう熟睡してしまい、終点に近い駅で目が覚めてしまった。最寄り駅とだいぶ離れてしまい、右も左も分からない状況だ。父に連絡して迎えに来てもらおうとしたが、今日は家に帰れないと父から今しがた連絡があった。花代子は絶望した。
おまけに、キーケースを家に忘れるという愚行も重ねて犯してしまっている。行きは、家にいた海燕が鍵を閉めてくれたが、そんな彼女も今は仕事に行っているため不在だろう。それに、今日の撮影は遅くなると聞いているので、寒空の下、海燕が帰ってくるまで玄関先で震えていなければならない。言うまでもないが、実家の鍵もそのケースの中である。一体自分は何しに外へ出たのか。
うう、今日はとことんダメな日だ……。幸い、相応のお金は持ってきているので、漫画喫茶で一夜を過ごすことにする。花代子が泣く泣く近くの漫喫を検索しているところ、どこからかヒールの音が聞こえてきた。
「……花代子ちゃん?」
女の人の声に名前を呼ばれて、花代子はスマホから顔を上げる。そこには、Aラインのミニワンピースに身を包んだ女性が首を傾げながらこちらを見つめていた。えっ? 誰この綺麗な人。目の前に現れた美人な女性(おまけに自分の名前を知っているときた)に花代子が狼狽えていると、女性はレイヤーを入れた髪の毛先を踊らせながら、こちらに向かってフレンドリーに手を振った。
「やっぱり花代子ちゃんじゃないですかあ~」
「え、えぇっと……。すみませんっ、どちらさまでしょうかっ」
「あ、そっかぁ。今日はちゃんとメイクしてるから誰か分からないですよね~」
おもむろに、女性は小さなトートバッグから何かを取り出して、片手でそれを縦に広げながら花代子に見せてきた。この紋所が目に入らぬか、のようなあれだ。そしてそれは紋所ではなく警察手帳。きらりと光る旭日章が目に飛び込んできて、さあっと顔色を変えた花代子だったが、手帳に記されていた名前を見てさらに破顔してしまった。
「ひっ、日和さんっ!?」
「当たりです~」
女性もとい日和は柔和に笑みながら、手帳をバッグに仕舞った。
ぜっ、全然分からなかった……っ。婦警の人って、プライベートの時はこんなにも変わるんだあ……。すごおい、メイク上手だあ~……。いやいや、スーツ着てる日和さんも綺麗だけどもっ! 花代子が一人ぶんぶんと首を横に振っていると、日和は、ん? と不思議そうな顔をして花代子を見下げながら、さらにこちらに近づいてくる。う、うわああぁぁ~っ。すごくいい匂いするぅ~っ……。
「花代子ちゃんはどうしてヨコハマに――あ、もしかして帰省ですかー? でも、花代子ちゃんの実家ってこっち方面でしたっけ?」
「あ……。じ、実はですね……」
かくかくしかじか――事の発端から今に至るまで一から十まで話すと、日和はけらけらと笑いながら「それは災難ですねえ」と言った。穴があったら入りたいとはこのことだ。
「ひっ、日和さんは今日おでかけだったんですかっ?」
「そうですよ~。久々に全日オフだったので、街でショッピングしてました」
たしかに、日和はトートバッグ以外にも大きなショッピングバッグをいくつも持っている。その中にはたくさんの戦利品が入っているのだろう。
そういえば、私も最近自分の買い物してないなぁ……。今度海燕さんと買い物行こ――って、今はそれどころじゃないっ!
「そーだ。花代子ちゃんがよかったら、今夜うちに泊まります?」
「えッ!?」
唐突な申し出に、花代子は声が裏返った。いつもなら遠慮するところなのだが、状況が状況だ。漫画喫茶よりも既知の人間の家の方が治安的にもよろしいに決まっている。「いっ、いいんですかっ? ほんとにっ?」と不躾に前のめりに尋ねてしまうのも仕方がない。
そんな花代子にも日和は「もちろんですよ~」とまたへらりと笑いながら言ってくれた。ひっ、日和さん優しい……ッ!
「それじゃあ、服はわたしの貸すんで下着だけ買いに行きましょうかあ。近くにユニクロあるんでそこで――あ、ついでにご飯もそこらへんで食べます?」
「あっ、よかったら私がご飯作りますよ! なんでしたら作り置きもいくつか――っ」
言ってから、花代子は石のように固まった。し、しまった。仕事の癖で言ってしまった……っ! ご飯ならともかくなんだ作り置きって。穴があったら入りたいその二だ。
案の定、日和はぽかんとしていた。それはそうだ。会って間もないのに馴れ馴れしすぎたと花代子が咄嗟に謝ろうとすると、「……ああ、すみません。なんでもないですよー」と日和が手を胸の前で左右に振る。まさか、こちらのことを思ってフォローしてくれたのだろうか。優しすぎないか。寒空の下であることも相まって涙が出そうだ。
「じゃあ、今晩は花代子ちゃんにお願いしようかな~。ちなみになに作ってくれるんですか?」
「日和さんの好きなものでいいですよ! 作ったことないものでもレシピ検索してぱーっと作っちゃいます!」
日和が気を回してくれて嬉しくなった花代子は、目の前にぱあっと花が咲いたような気分になる。少し見栄を張ってしまったが、“手を動かせば何かはできる”のをモットーに、代行先でも何かしら作ってきたのだ。料理に関するフィーリングには自信がある。
「わたしが言ったもの、そのまま作ってくれるんですか?」
「はいっ! 特に何もなければ和洋中だけでも言っていただけるとメニューが決めやすいです! あっ、日和さんって嫌いなものとかアレルギーとかあります? あとこの時間でやってるスーパーとか近くにありますかねっ?」
そうと決まれば、口がよく回る。職業病のレベルで、花代子はマシンガンのような勢いで言葉を次々に繰り出していく。日和が驚いたように目を丸くして、こちらを凝視しているのに全く気がつかないほどに。
家にはラーメンしかない――日和の言葉通り、彼女の家にはラーメンしかなかった。厳密に言うと、ラーメンの要である乾麺と、入れるだけで完結するメンマやネギといった加薬類しかなかった。よって、冷蔵庫の中身はほぼ空に近い状態であった。
日和曰く、「わたし、料理できないんですよー。うちにも寝に帰ってきてるだけなんで、食事にはそんなに頓着してないんです」とのことだ。それでも、家事を生業としている自分がここにいる限りは、バランスの良いものをたくさん食べて頂きたい。「分かりました! 任せてくださいっ!」そう言って暴走した結果――
「つ、作りすぎたぁ……ッ」
花代子は目の前にずらりと並んだ料理をぐるりと見回して、ようやく手が止まった。
日和のリクエストは“家庭的なあったかい洋食”だったので、シンクの上に並べられたメニューは言わずもがな。ポトフ、ナポリタンパスタ、コーン入りのミルクシチュー、ジャガイモとにんじんのグラタン、オムライスなどなど――ちなみに、スーパーで安売りされていたバケットも添えている。洋食を作るのは久しぶりなので、あれもこれもと欲張って作ってしまった。とてもじゃないが女子二人で食べれる量ではない。よーしついでにデザートも作っちゃえ! と思い立って手を動かす前に我に返って良かったと思う。
これ、さすがに引かれるんじゃ……。花代子がキッチンの前で打ちひしがれていると、「めちゃくちゃ良い匂いするんですけど」とリビングにいた日和がこちらにやって来た。そして、海のように広がっている食事を見るやいなや、彼女は無言で立ち尽くしてしまった。そうだよねっ、こんな量作られたらびっくりするよねッ。
「……花代子ちゃん、実は天才です?」
「え」
「こんな豪勢なご飯、出張先のホテルでしか見たことないです」
あまり見ない真顔でそう言う日和に、思わずどきっとしてしまう花代子。はたとして、そんなことない、と勢いよく首を横に振った。
「ご、豪勢なんてそんな大げさですよっ。というかすみません、量も考えずに作りすぎちゃって……」
「へーきですよ。わたし大食いなんで。それでも余ったらお隣さんに分けるんで」
即答である。しかもとても早口だ。花代子がぽかんと口を開けているうちに、「それより早く食べましょ! わたし、何すればいいですかー?」と日和はころりと笑った。花代子の背後に回って、腰やら背中を撫でながら、目の前のご飯に子どものようにはしゃいでいる。美人さんのボディータッチ、めちゃくちゃどきどきするんですが!? なんて言えるわけもなく。日和には箸とコップを出してもらうよう頼んで、ひとまず事は落ち着いた。
というか、日和さんってご近所さんと仲良いんだな~。それなら、作り置きもちょっと多めに作っとこうかな。いや、でもさすがにお節介かな……。さっきは寝に帰ってるだけって言ってたけど、きちんとご近所付き合いもしててすごいなあ。やっぱりできる女性は何しても完璧――
「花代子ちゃん、もう食べていいですか?」
「え? あッ……はい! どうぞ召し上がれ!」
考え事をしている間に配膳も終わっており、お互いに向き合ってテーブルの前に着席していた。すでに食べ始めている日和に習って、花代子も手を合わせる。
まずは、ポトフをスプーンで掬って一口。コンソメが程よくきいており、それでいてあっさりとした口当たりだ。じゃがいもやにんじんも煮込みすぎず、素材の味がきちんと生きていた。 ……うん、久々にしてはよく出来ているじゃないか。よしよし。
一方、日和はそれぞれの料理をすべて数口だけ口にして、じっと固まってしまった。かちゃん、と皿の縁にスプーンを置いて、目を落としながらじっと何か考えこんでいる。え!? もしかして口に合わない!? そんな花代子の言いたいことを察したのか、「あ~……すみません」日和が顔を上げながら苦笑した。
「あまりにもおいしすぎて何も言えなくなってました」
「えっ? おいしすぎ、て……? あっ、ありがとう、ございます……?」
焦燥から歓喜に切り替えるのがすぐにできず、花代子はたどたどしくお礼の言葉を漏らした。日和は再び食べ続けながら、「おいっし……」とぽつぽつと独り言を零している。あぁ~よかったあぁ……。口に合わなかったら私がこれ全部食べなきゃいけなくなるところだった。
そうして、しばらくお互いに無言で食べ進めていたが、元来喋るのが好きな花代子は、ついつい食べること以外で口を開いてしまった。
「日和さんが普段お料理されないのって、やっぱりお仕事が忙しいからですか?」
「それもありますけど、わたしがキッチンに立つと部屋燃やしちゃうんで~」
「燃や――へ?」
「それはそうと、花代子ちゃんってどんなお仕事してるんです? どこかのお店のシェフとか?」
何やら物騒な言葉が聞こえてきたが、シェフという畏れ多い言葉に上書きされて、全力で否定してしまう。今は家政婦として働いている旨を伝えると、「あ、噂で聞いたことありますよ。代行業みたいなやつですよね~」と日和はじわじわと話を広げていった。会話でも口はよく動いているが、彼女の食べるスピードは全く落ちていない。
お父さんも食べるのすごく早いけど、日和さんもやっぱり早いや……。やっぱり、これも警察官だからかな。喉詰まらせちゃうといけないから、念のためお茶のおかわり次いでおこう。
「わたし、家庭的?なご飯、あんまり食べたことないんですよね。前までは学生時代の先輩が家に来てご飯作ってくれたりしてたんですけど、せんぱいが結婚してからは手作りなんて全然食べてなかったですし」
「へえ~っ。そうだったんですね」
「わたしも、花代子ちゃんと同じで母親いないんで。小さい頃も、お金握りしめてスーパーで惣菜買ってくるのがほとんどでしたね~」
流れるように片親であることをさらりとカミングアウトされて、花代子は再びどきりとしてしまう。先程と同じく、「へ、へえ~っ。そうだったんですねえ~っ」と返事をしたが、動揺を隠せていたかどうかは怪しいところだ。
日和さんのところもお母さんいないんだぁ……。今どき片親も珍しくないと思うが、父と接点があったり、海燕が一時期ヨコハマ署でお世話になっていたりと、なんだか日和との見えない縁のようなものを感じてしまった。「それに比べて、」
「花代子ちゃんは偉いですね~っ。ご飯作るのめちゃくちゃ上手ですし~。こういうの、小さい頃からやってたんですよね? すごいなあ~っ」
「え!? い、いやあ~、それほどでもないですよう」
「いいなあ~。わたしも花代子ちゃんのこと家政婦として雇いたいな~」
先ほどまでの半シリアスな話題から一転。日和によいしょよいしょと持ち上げられ、花代子は食べることも忘れてしまうくらい、でれでれに照れてしまう。先程の憂いすら忘れてしまうくらい、日和はにこにこと笑っていた。
笑顔の時とそれ以外のギャップに心臓が落ち着かない。どこが、と聞かれると返答に困ってしまうが、なんというか……うん、そう、ミステリアスな人だ。同じく美人さんだけど、海燕さんとはまた違うタイプの人だなあ、と花代子は漠然と思った。
――しばらくの間、日和と共に和気あいあいと夕食を食べ進めていた花代子。そこに、一つの着信音が部屋に響く。花代子が視線を散りばめる前に、日和が手元に置いていたスマホを手に取り、画面を見るなり「うわあ~……」と力のない声を漏らした。
あ……知ってる。この感じ。お父さんも、家に帰ったばかりだろうとお休みの日だろうと、携帯に着信が入るとそんな顔してた。「ここでどうぞっ」と花代子が反射的に言うと、にっこり笑った日和は画面に指を滑らせて、スマホを耳に当てた。
「はい、亀崎ですー。……え? 今からですか? 今しがた家帰ってきたばっかなんですけど~。……えー、待ってくださいよー。今、超豪華なご飯食べてる最中なんで、せめてこれ食べてから――」
――「はい、若槻です。……は、今から、ですか。はい……あ、いえ、今日は娘の誕生日で――はい、はい。……分かりました。すぐに、向かいます。場所は――」
実家も聞いていた応答と、ほぼ同じだ。臭いものにはなんとやら――過去の自分が頑丈に蓋をしていた鍋から、鼻をつまみたくなる汚臭がじくじくとにおってくる。ああ、嫌だなこの感じ……。花代子は静かにスプーンを置いて、日和の声が止むまで体をじっと縮こまらせた。
「――はあい。りょーかいでーす。今から向かいまーす」
嫌いなものも、苦手なものもない。ただ強いて言うなら、この瞬間が、なによりも――
「すみません花代子ちゃん。今から出なくちゃいけなくなりました」一人、取り残される食卓。目の前に並んでいるご飯が急に色をなくして、花代子の胃がみるみるうちに萎んでいく。どんなに頑張って作ったご飯も、一人で食べたら虚しいだけ。あれだけ有頂天になっていた気分が崖から突き落とされて、深海までぶくぶくと沈んでいってしまった。
「かーよーこーちゃーん」
「はっ、はいっ!?」
日和に顔を覗き込まれて驚いた花代子は、覚醒したように背筋をしゃんッと伸ばした。
「ご飯なんですけど、帰ってきたらわたし全部食べるんで、ラップしといてもらっていいですかね?」
「わッ……かりましたっ!」
ちゃんと普通に返事しなければ、と思っていたら、逆に声が裏返ってしまった。バレてない? 大丈夫? 花代子は変な汗をだらだらとかいてしまう。
すると、早くも私服からスーツに着替えた日和が、こちらをじっと見つめながらまたしてもにこーっと笑んだ。
「こういう呼び出しは普段からしょっちゅうなんでお気になさらず~。朝方には戻るんで、花代子ちゃんは先に寝ちゃって大丈夫ですよー。そこのクローゼットにお客さん用の布団が入ってるんで、適当に出しちゃってください」
「あ、朝方ですか……」
「あ、もしかして『お父さんもそんなこと言って帰ってこなかったからどうせ嘘でしょ』とか思ってます?」
ずばりとまではいかないものの、かなり的に近い回答が返ってきて、花代子はぎょっとした。「思ってませんっ! 思ってませんともっ!」両手を左右に振りながらそう言うと、「そうですかあ~?」と日和がきつねのように目を細めた。
「あはは、冗談ですよ~。上司にちょこーっと引き継ぎするだけなんで、すぐ終わりますよ。わたし、自分で言うのもなんですけど、仕事早いんです。なんなら溜まりに溜まってる有給もぎ取ってきますよ~」
「そ、そんな簡単にもぎとれるものなんですか……?」
「とれますとれます~。あっ、そうだ。花代子ちゃんがよかったら、明日のお昼に映画観に行きません? せっかくのディナーを中途半端にしちゃったお詫びに、花代子ちゃんのショッピングとか付き合いますし、食べたいランチとかあったら奢りますし~」
凄まじい速さで身支度を整えながらも、日和の口はそれと同等のスピードで動いている。それでいて、今から仕事に行くとは思えないくらい、口調はとても和やかだった。一方の花代子は、映画、ショッピング、ランチ――魅惑すぎる言葉の羅列に、夢が広がっていく。幼い頃、こういう約束はあまり守られた記憶がないのにも関わらず、性懲りもなく期待してしまった。
……でも、日和さんなら、大丈夫かもしれない。
「すっ、すごく、行きたいですっ!」
「じゃあ、明日はわたしとデートしましょ~」
言ってしまった。ついつい言ってしまった。そして、デートという言葉に花代子はついに胸を押さえてしまう。でっ、デートだなんて、びっくりしたぁ……。日和さん、絶対男性経験豊富だあ~……。花代子は動揺を隠すように、先に玄関に向かった日和の背中をぱたぱたと追った。
「いってらっしゃいませっ」
パンプスを履いた日和に向かって、花代子は代行業でいつも言っている言葉を口にする。人様の家で言うのは少し緊張してしまったが、言わなければ違和感が残ってしまうので、これでいいはずだ。
すると、日和がくるっと振り返る。またしても一瞬表情がなくなっていたが、すぐさまどこか遠いところを見るように目を細めた。
「……誰かがお見送りしてくれるのって、いいなぁ」
「え?」
「なんでもないですよ~」
いって、きます
どことなくぎこちなく聞こえたのは、気のせいだったかもしれない。す、の音が消える前に、日和の靴の音が外へ駆けていき、玄関のドアが閉まる。かちゃん、というオートロックの控えめな音を聞いて、花代子は誰もいなくなった部屋にとぼとぼと戻っていった。
……ぱちんっ! 目を覚ますように、花代子は両頬を叩く。落ち込んでない、落ち込んでないぞ。さみしくもないぞ。明日のお昼からは日和さんとおっ……じゃなくて、でっ、デートするんだっ! ふんす、と気合を入れた花代子は再びテーブルの前に座って、少しだけ冷めてしまったご飯を黙々と食べ進めたのだった。
――そして、約束の朝方。客用の布団で眠っていた花代子が目が覚めると、日和がスーツのまま隣で熟睡していた。おまけに、自分を抱き枕のように布団ごと抱きしめた状態で。
「ぎゃあッ!?」
「日和さんこんなとこで寝てたら風邪ひきますよ!? あとスーツも皺に……って体冷たっ!?」本当に朝方帰ってくるとは思っていなかったが、嬉しさよりも動揺が勝った。日和の腕から抜け出した花代子はゆさゆさと日和を揺すり起こす。いつの日かの幻太郎の廊下ぶっ倒れ事件を彷彿とさせた。
そして、ようやく微睡み状態にまでなった日和を速攻お風呂に入れた。入浴後にようやく目が覚めた彼女曰く、朝日が昇る前に帰ってきて、夕食を全部食べたら眠くなってしまい、ちょうど子供体温の花代子の隣に横になったら、そのまま眠ってしまったとのこと。色々突っ込みたいことはあったが、たしかに冷蔵庫に入れていた昨日の夕食は綺麗さっぱりなくなっていた。え……。あの量を一人で……?
「わたし、結構なうそつきなんですけど、人との約束は守るタイプなんで~」
ご飯は全部食べるのも、朝方帰るのも。髪をタオルドライしていた日和は、そう言っていつものように笑っていた。
その後、花代子が即席で作った朝ご飯を日和と一緒に食べて、約束通り、街に出て映画を観て、ショッピングに付き合ってもらい、美味しいパスタランチもご馳走になった。夕方に近い時間になると、日和の行きつけだという岩盤浴に連れて行ってもらい、良い汗をかいた後に同じ施設内の天然温泉で身も心もリフレッシュ。贅沢すぎる、最高の一日だった。
――そして、夜が深くなる前に、花代子は日和と別れた。きっと、この時間ならば海燕ももう帰ってきているはずだ。
ひとり、帰路を辿っている中、花代子はぼんやりと思う。幼い頃、家に一人取り残されていた自分は、まだ心の中にいる。しかし、今だからこそ、その頃の自分に、さみしいね、大丈夫だよ、と頭を撫でてあげたい。その後は……そう、今日みたいにご褒美をたくさんあげよう。美味しいものを食べたり、体を動かしたり……好きなことなら、なんでもいい。
そうしたらきっと、幼い頃の自分も笑ってくれるにちがいない。そんな前向きな思考が、花代子に空を見上げさせる。気分が高揚しているせいか、山の上でも何でもないのに、いくつもの星がよく輝いて見える夜空だった。
