芥に滲む春のいろ
花代子曰く、自分は人見知りらしい。“従来は子供が知らない人を見て、恥ずかしがったり嫌ったりすること。 大人の場合は内気もしくは照れ屋、恥ずかしがり屋とも同等の意を示し――ぱたん、とすぐさま辞書を閉じた海燕は、“良い子”である花代子にまた思い違いをされていることに気付く。海燕は決して恥ずかしがり屋というわけではない。他人――特に異性に対しては当たりが強くなるだけである。どちらかというと人間不信の部類だ。
さて、そんな海燕がなぜ、数分前に会ったばかりの男の家の居間で、その男と一対一で向き合っているのか。もう帰る、とここで立ち上がってしまうのは簡単だ。しかし、別室にいる花代子が悲しそうな顔をする未来が見えて、仕方なく……本当に仕方なく、座布団の上に未だ留まっている。少なくとも、もう十分近くはこの状況のままだった。正座している足が痺れてとても痛い。
――「お願い海燕さんっ! 先生の取材に協力してくれないかなっ?」
すべての発端は、数日前まで遡る。
海燕が仕事から帰ると、休日だった花代子がご馳走を用意してくれていた。理鶯がわざわざうちに足を運んで届けてくれた川魚の天ぷら、その魚の粗汁、名も知れぬ木の実の甘煮など――海の幸ならぬ森の幸をふんだんに使って、彼女はその腕を奮ったらしい。ずらりと並べられた自然の恵み百パーセントの献立に、珍しく海燕の心も踊った。
そんなご馳走にも意味があったのだと気づいたのは、上記のような懇願を受けてからだ。どうやら、花代子の代行先の小説家が海燕のことを取材したいとのことだった。なぜその小説家が自分のことを知っているのか――いや、聞くだけ野暮というもの。花代子が話したのだろう。その小説家とやらも、花代子が普段から“センセイ”と呼んでいる人間のことだと想像できる。そこで再度代行業ができるようになってからというもの、花代子の口からはさらに“センセイ”に関する話が飛び出すようになったことも、海燕は承知していた。
――「カヨコ。その“センセイ”って、どんな人」
――「海燕さんも会ったことあるよ! ほらっ、この前カフェで絡まれた時に助けてくれた――」
……あの男か
海燕はいつかの残像をぼんやりと頭の上に思い浮かべる。シブヤの街ではあまり見ない奇異な格好をした男だったので、不本意ではあるが記憶に残っていた。
曰く、その男が今書いている話に、中国人の女性を登場させるという。より臨場感を出すために、同性かつ同国の海燕から話を聞きたいとのこと。「ごめんね……。海燕さんがこういうの苦手って知ってたのに、先生が中国人の女の人を書くって聞いて、私テンション上がっちゃって……」申し訳なさそうに眉を下げた花代子に、海燕はほのかに笑んだ。気にしないで、とも付け加えて。
可愛い妹分の花代子の頼みとあらば、可能な限り聞いてあげたい。しかし、ほぼ初対面に近い男と同じ部屋で自分のことを一方的に聞かれるのは中々に難しいことだった。それでも花代子の夕食はとても美味しかったし、個人的にも彼に聞きたことがある。こんなにも迷ったのは、理鶯からの手紙で“今夜会いたいのだが、時間はあるだろうか”というメッセージの返事をどうするか考えた以来かもしれない。
……結果。一晩考えて、海燕は是と答えた。ただし、男から聞かれたこと以外のことは答えないこと、それについても答えたくないものは答えないこと、それでもなお執拗に聞いてきたら即時で帰ることを条件に掲げた。それを聞いても、花代子は上機嫌のまま代行先へ連絡。そして後日、その条件付きの取材に了承したのことで、ほぼ見も知らぬ男からの尋問会が決定したのだった。
海燕が忌み嫌う“男”――そうは言っても、花代子が長らく勤めている代行先。普段ならば丼五杯分の不審感が三杯分くらいにまでは小さくなっている。取材とやらが終わるまでは花代子も男の家にいるらしいし、海燕が危惧している“万が一のこと”は起きないだろうと踏んでいた。
――そして、時を戻す。約束の時間に男の家に訪問し、彼と対面して、居間に通され、花代子がお互いにお互いを紹介すると、彼女はすぐさま席を外してしまった。まさかここまで無言の時間が続くとは思わなかったので、早く戻ってきてほしいところではある。
海燕は机の向こう側に座っている男を見据える。彼は正座をして、眠っているようにじっと目を閉じていた。なぜ一言も喋らないのか。話をするならする、しないのなら花代子共々帰らせろ――どっちつかずのこの現状に、海燕は腹の奥で沸騰している苛立ちの存在を認知した。
もうなんなの、と海燕が小さく溜息をつく。すると、今まで不動だった男の目がうっすらと開かれ、不意をつかれた海燕は思わず息を止めた。
「軽食持ってきましたよ~!」
突如、襖の奥から花代子の声がする。海燕がそちらを見るよりも先に、「どうぞ」と男が返事をした。
……先程目を開けたのは、花代子の気配に反応したのだろうか。いやまさか。そんなはずはない。海燕は心の中で首を横に振った。そのあいだに、「失礼します!」と元気よく入室した花代子。その瞬間、今まで部屋に充満していた重たい空気をすべて吸い取ってしまったかのように、室内の雰囲気が一気にがらりと変わった。じめじめとした廃工場から春の野原のような開放感へ――空気清浄機もひっくり返るほどの仕事ぶりである。
一方、そんなことは存ぜずな花代子。「食べやすいかなと思ってサンドイッチにしました~! 右からツナきゅうり、たまご、あとはその二つのミックスサンドです!」と上機嫌に大皿の上に乗ったサンドイッチの説明をしていく。傍らには湯呑みも準備されていた。自分と男、そして花代子との空気の温度感が凄まじいことは海燕でも察しがついた。
「取材、進んでますか?」
「ええ。それはもう順調に」
進むどころか先刻まで無言の空間だったのだが。ようやく喋った男にむ、と海燕が顔を顰めるも「よかった~!」と花代子はさらに笑顔になった。
騙されないでカヨコ。海燕が本当のことを言おうとして口を開いた瞬間のこと――一瞬だけ見えた、男の表情。目尻をゆるりと下げて、口角はきゅっと結ばれながらも気持ち上に持ち上げられていた。なんとなくその顔に見覚えがあって、海燕は思わず喉を詰まらせる。理鶯も時折、自分にこんな顔をすることがある。曰く、“海燕といると幸福のあまり気が抜ける”らしい。それを聞いた海燕はしばらく彼と口が利けなかった。この男もまた、その時の理鶯と似た思いを抱いているのだろうか。……花代子に対して。
「じゃあ先生、またお腹すいてきたら言ってくださいねっ。海燕さんも!」ぱちん、と海燕は我に返る。顔を上げた時には花代子は部屋を後にしており、男は湯呑みに手をかけていた。先程の表情は幻だったのかと疑いたくなるほどの無表情だ。海燕が目の前にいることすら認知していないのではないかとも思う。ひとたびそう思ったら、だんだん苛々してきた。そもそも、なんだその態度は。こっちは花代子がどうしてもと言うから来ただけであって、決してお前の摂食活動を見に来たわけではない。おまけに、花代子に対しての男の態度が海燕の予想通りだったので、痺れを切らした海燕は先に“個人的に聞きたいこと”を聞くことにした。
「あなた、カヨコが好きなの」
「ごふッ……っ!」いきなり男が茶を噴いた。いい気味だ、と思ったことは胸の中に留めた。男はちょうど手元にあったティッシュを手繰り寄せて、上品な所作で口元を拭っている。それでも、先程の動揺をなかったことにはしない。
……一頻り男が落ち着いて、長い長い沈黙の後、「……はて、なんのことやら」と男は白々しく言う。一方、海燕は獲物を定めた鷹の爪のように目を鋭く細めた。
「カヨコは、皆に対してああいうふう。あなただけにじゃない」
「いきなりなんなんですか」
「胡散臭そうなあなたに、勘違いしてほしくないから」
実のところ、最近からではない。数年前から花代子の口からは“センセイ”の話題は絶えなかった。最初は“少し小難しい代行先の人”と聞いていたのが、「海燕さん聞いて~っ! 今日初めて先生が挨拶返してくれたの!」と嬉しそうに報告してくるようになった。花代子が楽しそうならなによりだ。それでも、相手は男。海燕は妹のように大切にしている花代子がその男に騙されていないかと心配なのである。男の話が花代子によって七割増で美化されて語られていることを考慮すると、彼はかなり性根の曲がった人間だ。男はすぐに調子に乗る。そう簡単に心を開いてはいけない。昔、男相手に売春していた海燕の経験がそう言っている。
海燕が男を睨みつけていると、やれやれ、と彼は疲れたように肩を落とした。
「あなたが言っている“勘違い”という意味は分かりかねますが、胡散臭さという件については否定しませんよ。小生のアイデンティティのようなものですから」
「最低」
「なんとでもどうぞ」一度剥がした男の面の皮が再生していく。話していくうちに、さらにその皮は先程よりも分厚くなっていっているような気がした。警戒されているのだ。それに、声のトーンも対花代子のものよりひと回り低い。もしかすると、彼も自分と同類の人間なのかもしれない。
「部屋に入ってからというものの一度も口を開かなかったのにどういう風の吹き回しですか。小生、色事に関することを口にすると泡になって消えてしまうのですよう~」
「少なくとも、カヨコに興味はあるんでしょう」
「いいえ。小生が興味があるのは彼女が作るサンドイッチです」
「カヨコが作るご飯は美味しいでしょう」
「食べれなくもないですよ。とっっても空腹の時はおいしいと感じられるほどには喉を通ります」
「なら嫌いではないのね」
「ええ。外食よりもコストパフォーマンスはいいですから」
「私も好きよ。カヨコのご飯。あなたのせいで夕食を一緒に食べる機会は減ったけれど」
「あの娘がどうしても小生と共に食べたいと言うので致し方なく。小生は一人の方が好きですがねえ。あなたが一人でご飯を食べれないようなお子様でしたら、どうぞ持ち帰って頂いてもいいのですよ」
「それはできない。カヨコはあなたと食べるご飯が好きだと言っていたから」
ぴく、と男の指先が動いたのを捉えた。色事の話を食事の話にすり替えられたがそうはいかない。相手の調子に乗った時、こちらが不意に落とした爆弾。案の定、男に隙ができた。彼もまた、中身の有る無しに関わらず、言葉を操るのが得意なのだろうが、こちらも商売相手であった“男”をその気にさせるために身の毛もよだつような嘘八丁を繰り返してきたのだ。こんなひょろひょろとした男に負けて堪るか。
男との長い言葉の戦争の末、勝利した海燕はふ、と笑った。
「嘘よ。笨蛋」
男の端正な顔が歪む。まあ、花代子が彼と食べるご飯が好きだと言っていたのは本当だが、あくまで親愛の範疇だ。それすらも言ってやる義理はないと思い、海燕は口を閉ざしている。
今にも、男の口から嫌味事の一つでも出てきそうだったが、代わりに漏れてきたのは深い溜息だった。
「……同族嫌悪というのは、こういうことを言うのでしょうね」
「カヨコがいつも言っている“センセイ”は、あなたのことでしょう」
「知りませんよ。まあ、あの娘の周りで“先生”という肩書きのあるような人間は、小生くらいしかいないのでしょうが」
「カヨコは素直すぎる。人の好意をそのまま受け取る子だから、相手もすぐに調子に乗る」
「まるで小生があの娘に言い寄っているような物言いは止めていただけますか」
「そう変わらないでしょう」
「変わります。小生の沽券に関わりますから、そこを誤解されては困ります。……ああ、“沽券”の意味分かります? 紙の辞書なら貸しますので遠慮なくどうぞ」
いちいち勘に障る物言いだ。彼は人の良さそうな柔和な笑みを浮かべるが、小馬鹿にされていることは明白だった。それでも、彼がつくる流れに乗っては駄目だ。先程の自分のように手を平を返されて、弱いところを突かれるのが目に見えている。
「カヨコのことを遊んでいるなら……止めて。それとも、泣かせるまであの子を弄ぶつもり」
一度切られた契約を、また結ぶ。それも高待遇で。今頃無職になっているはずだった花代子は非常に助かったと言っていたが、それを聞いた海燕はどうも腑に落ちなかった。元より予感はしていたが、男が花代子に気があると思ったのは、その件があってからだった。花代子が傷ついてからでは遅い。いらぬ縁は断ち切ってしまうが吉だ。
……その後、男の出方を窺っていると、なぜか彼は目の前のサンドイッチを手に取って黙々と食べ始めた。なぜこのタイミングで食べる? 海燕は目を丸くした。
「……想っていますよ。それなりには」
空気が流れるように、耳にすうっと入ってきた音。手の中にあったサンドイッチを食べた後、湯呑みを傾けて、男はほう、と息をついていた。目に色濃く落とされた影が、彼の緑の瞳をより妖艶に魅せている。やはり、この顔も、海燕がよく知る、“男”の目をしていた。
親愛の範囲でなら、花代子も幸せだろう。海燕も、それは理解している。しかしまだ、彼女の精神は“色”のこともまともに知らぬ少女だ。自分の目が黒いうちは、守らなければならない。もうすでに土の中で眠っている、あの子のようにならないように。
そもそも、まだ子供のような花代子を女として見ていることが、なんとも――
「……爬行」
「“気持ち悪い”、ねえ……。まあ、小生もあの娘のおかげで自己嫌悪の毎日を過ごしていますから。それについては同意しましょう」
「あなた、言葉が分かるの」
「以前に書いた物語に必要だったので軽く齧った程度ですよ」
「貴女も、小生が啖呵を切るほどこちらの言葉が流暢だとは思いませんでしたが」男はそう言って、次はたまごサンドに手にかける。食べるペースが早い。もたもたしていたらこちらの取り分がなくなってしまう。海燕も負けじとミックスサンドに手をかけて、一口。パンの甘みと程よく酸味の聞いた具がとても美味だった。
「あなたが、私に取材をしたいと言ったとカヨコから聞いたけど、それも嘘でしょう」
「嘘という以前に、小生はそんなことを一言も言っていませんよ。次回作の主人公が中国人ということをちらりと言ったら、あの娘が一人で勝手に盛り上がって、あなたと顔を合わせる約束を無理矢理取りつけたんです。赤の他人である女人への取材など、小生から言うわけがないじゃないですか。煩わしい」
「なら、どうして引き受けたの」
「言ったでしょう。小生は彼女の作るサンドイッチに興味があると」
要するに、花代子が休みの日にでも彼女の手料理を食べたかった、と。海燕は呆れて何も言えなかった。自分は男の願望に見事利用されていたということだ。ならもう花代子を連れて帰っていいだろうか。サンドイッチも食べたことだし、ここに用はない。
「まあまあ。せっかく来たんですからゆっくりしていきなんし~」
「思ってもないこと言わないで」
「おやおや釣れませんねえ。しかし、あと少しもすればあの娘が頼んでもいない甘味を作って運んでくるはずです。あなたにはまだここにいてもらわなくては困ります」
お前の都合など知るものか。しかし、花代子がデザートを運んでくるのは本当だ。先程から甘い匂いがこの部屋にまで漂ってきている。正直、食べたい。海燕がひとり帰ったところで男が花代子が作ったデザートを食すのだろう。それはそれで腹が立つものがあった。
……再度、海燕は男の顔を見る。「利害の一致、ということでよさそうですね」と男は得意げな顔で言った。
「では、形だけでも取材をしましょうか。あの娘も気にするでしょうし、アリバイ作りにはなるでしょう」
「私はやる気がない」
「小生も取材などしたくありませんよ。なのでモデルは変えます。貴女とて、あの娘に嘘はつくのは本意ではないでしょう?」
痛いところを突かれて、海燕は口を噤む。それを肯定と受け取った男は、まるで物語の冒頭でも読み上げるかのようにゆっくりと、静やかに、口を開いた。「では、語らいましょうか」
「お馬鹿で、お人好しな……一人の女子の話を」
夕暮れよりも夜に近い時間帯。海燕は、男の家の玄関先で男と楽しげに話す花代子を見下げていた。
「先生っ。いいお話書けそうですかっ?」
「ええ。とても有意義な時間でしたよ。おかげで、頗る頭の悪い探偵助手のキャラクター像が固まりました」
「え? モデルは頭が良いチャイニーズ探偵なんじゃ……?」
「没になりました」
「没になったんですかっ!?」
……楽しそうだ。本当に。男も――嘘か真かは分かりかねるが――表情が豊かで、朗らかで、黄昏時だというのに、暖かな日向の下にいるような……そんな雰囲気だ。この男のすべてが信用ならないし、嘘か幻が服を着て歩いているような人間だが、花代子を想う心だけは、自分と似たものだと思わざるを得ない。
ここで、第三者が何か言うのも野暮というもの。それを知ってもなお、花代子を任せるには、彼に対する信頼は足らない。二人の空気感を壊さんとばかりに、海燕は花代子の服の袖をきゅっと摘んだ。
「カヨコ。そろそろ帰りたい」
「あ、うんっ! では先生っ、また明日代行にうかがいますので! よろしくお願いします~!」
花代子がぶんぶんと手を振るも、男は一瞥しただけで涼しい顔で家に入っていってしまった。なんだあの態度は。海燕が心の中で憤慨していても、花代子は全く気にしていない様子で家路を辿り始めた。いつものこと……なのかもしれない。分かっていたが、花代子はかなりあの男に甘いようだ。それが彼女の長所なのだろうが……ああもう。海燕も、結局何も言わずに彼女の隣でゆったりと歩き始めた。
何が嬉しいのか……花代子の口角は上がっている。元来、そういう子だ。特別意味はなく、生きているだけで楽しいと感じているような子だ。実際、「元気はあるけど、動く分よく空回りするから困る」「ああ、分かりますよ。そのくせ反省もしないので同じ過ちを何度も繰り返して……」「あれ、どうにかしてほしい」「その言葉、そのままお返ししますよ。あなたがあの娘の保護者でしょう」と、男とそんなような会話をして分かった。花代子がそんなだから、自分もあの男も目が離せないのだ。
人は変わる。日々成長する。花代子も例外ではない。ずっとこのまま、というわけにもいかない。それでも、このままがいい……と願わずにいられないのは、人の性というものか。
「……カヨコは、何とも思わないの」
「え? 何ともって?」
「私が、あの男と二人きり。何も、思わなかった?」
かまをかけるように、海燕は言う。ぽかん、としている花代子の表情がみるみるうちに破顔していくまで、そう時間はかからなかった。
「もしかして先生と二人きり嫌だったっ!? 海燕さん、理鶯さんと話してる時は大丈夫そうだったから男の人に慣れたのかな~? って思ってっ! ごめんねっ!?」
「そうじゃなくて。あと、リオに対してもそんなに慣れてない」
狼狽える花代子に、海燕は小さく息をつく。やはり、彼女に色恋のことはまだ早いようだ。それが今はひどく安心する。親心ならぬ姉心というのか……花代子には、世界の清いものだけを順繰りに見て、触れて、感じてほしい。臭いものには蓋を、汚いものにはあえて目を逸らして、生を謳歌してほしい。
彼もまた、そう思うことだろう。花代子の真っ直ぐすぎる清さに惹かれたのなら、尚更だ。今回の会を経て、それは十二分に伝わった。……まあ、そう簡単には渡さないが。
「……カヨコには、ずっとそのままでいてほしい」
「ど、どうしたの急に……。それに私は、もっとアダルティーな女性になりたいけどなあ。海燕さんみたいな!」
「それはやめた方がいい」
「えぇ~っ……」力なく声を漏らす花代子に、ふ、と海燕は笑む。もしもこの場に彼がいたのなら、自分と同じことを言ったにちがいない。彼女の幼さは、自分らにとって何者にも変えがたい宝なのだから。もしも花代子が大人になるその時が来て、万が一彼と“そういう仲”になろうと……いつまでも野に咲く小花のような健気さを帯びていてほしいと、海燕は切に願っている。
