生きたひとりの人の残り香
「ナゴヤ……?」
「ええそう。私の地元なの」
そう言って、海燕のカメラマンである鈴は薄く笑んだ。海燕は彼女が淹れてくれたコーヒーを一口含んで、言葉と一緒に舌の上でじわじわと馴染ませていく。最近、この嗜好品の味の良さがようやく分かってきた。鈴の腕が良いのもきっとあるだろう。
鈴と一緒に仕事するようになってからというもの、海燕は彼女が毎日のように持ってくる他国の衣装を着せられ、シャッターを押される日々を過ごしていた。海燕がレンズ越しの世界で何をしても褒めることしかしない鈴は、海燕の目にはかなりの変人として映った。本当に、こんなことだけで以前の職場の倍以上の給金を貰っていいのかとさえ思う。加えて、海ちゃん、なんて愛称で最近は呼ばれている。
以前発行された彼女の画集――すべてのモデルは海燕が担当している――一般販売されていないそれは、一部の業界からも評判がいいと、海燕の耳にも入ってきている。鈴も、これまでにないものができた、と喜んでいた。さすがの海燕も、彼女の満面の笑顔を見て、悪い気分はしなかった。鈴の役に立っているのだろうか、という一抹の不安を抱いていた頃もあったが、それもいつの間にか杞憂に終わっていたのだった。
――そんな、第二の人生が順風満帆になりつつある海燕は、ここのところ悩みがあった。
「ほら、最近夢見が悪いって言っていたでしょう? だから、厄除かご祈願でも行ってきたらどうかと思って」
途端に、コーヒーの味が分からなくなる。海燕は今まで聞いたことのない単語を頭の中で反芻していると、「要はお寺参りね」と鈴が付け足した。
「ナゴヤはね、全国で一番お寺がたくさんあるところなのよ」
「オ、テラ……?」
「ええそう。中には尼寺もあるから、海ちゃんの話もきちんと聞いてくれると思うわ」
海ちゃんの気が進めば、だけど
そう言って微笑む鈴からは、善意の匂いしかしない。海燕は、少し腫れぼったくなってしまった目の下を無意識に撫でる。この職に就いてからというものの、毎朝鏡を見るようにしているが、その度に顔色が悪いと思えるくらいには、自分の体調について関心を持つようになった。同居人の花代子にも心配されたほどだ。
夜に魘されるのは、今に始まったことではない。ただ、いつもと違うのは、少し、肩が重たいということだけ。特に、疲弊の溜息をつくたびにその重量が増していく。そのことを察してからは、時折生まれる憂いすらも飲み込んで、胸の内に溜め込むようになった。
まるで、人ひとり背負っているかのように、心臓にすら纏わりついているような重力。今も、つきそうになった溜息を喉の奥に押しやって、海燕は味を忘れたコーヒーをもう一口飲んで、是、と頷いた。
――「本当に一人で行くの?」
土地勘のない自分を心配する鈴の言葉を受け取るだけにして、海燕の足はナゴヤ・ディビジョンに降りた。自分のために、多忙な鈴の時間を割く訳にはいかない。新幹線と地下鉄の乗り継ぎに手間取ったものの、なんとか一人で目的地に辿り着けそうだ。
「(アマデラ、ジューショク、ゴキトー、お願いする)」
鈴に言われた言葉を繰り返しながら、海燕は地下を歩く。目的の場所は、現在地であるナゴヤ駅からフシミ駅まで行き、路線を乗り換え、その次の駅で降りるのだそう。あとは、鈴がスマホに送ってくれた地図のデータを参考に、地上をただ歩くだけだ。
フシミ行きの電車に乗ることができた海燕。すると、またさらに肩の重みが増して、今度は目眩すらしてきた。すぐに電車を降りるとはいえ、辛抱ならなくなった海燕はふらふらとした足取りで空いている座席に腰を下ろした。
「(困……)」
たった一駅だけだと思いつつも、海燕はついに目を閉じてしまった。ゆらゆら、ゆらゆら。揺蕩う睡魔とともに体が揺られる。平日の昼時だからか人もまばらなので、電車の音を除いて、海燕の睡眠を妨げる雑音はなかった。
微睡んでいても、肩の重みは消えない。正直、この重みにももう慣れてしまって、あろうがなかろうがどうでもよくなっていた。それでも、この身を案じてくれる大切な人たちの声を聞かぬふりをすることもできないものだから、こうして見知らぬ土地に足を踏み入れた。
それに……ただただ重いだけで、決して不快感が伴うようなものではない。むしろ、どこか懐かしさすら覚えるような感覚で、まるで、数年前の自分と今の自分が一つの体に共存しているようだった。
――姐姐
はっとする。カミマエヅ、と頭上から降ってきた駅名を聞いて、半分意識を飛ばしかけていた海燕は頭が真っ白になる。どうやら乗り過ごしてしまったらしい。
電車が止まり、ドアが開いた瞬間、海燕はホームに降りた。行き過ぎたのなら戻ればいい話なのだが、いかんせん駅構内が広く、おまけに知らない駅名ばかりが連なっているものだから、数分も経たずに海燕は迷子になってしまった。
地下で迷ったら、ひとまず地上に出るといいわ――鈴の言葉を思い出して、海燕は平静を取り戻す。ひとまず、地上に続く階段を探しながら、頼りの綱であるスマホのマップを立ち上げた。
幸い、降りた駅と目的の駅は近いところにあった。目指している尼寺もマップを見てみれば歩けない距離ではなかったので、海燕は新たな未踏の地へ一歩踏み出した。
広い道路に、狭い歩道。慣れない土地で多少のストレスを感じているのか、肩の重みがじりじりと増していく。足取りもやや重たくなっていく。車がすぐ横を通り過ぎる音、時折皮膚を撫でる風……すべての刺激が敏感に感じ取れてしまい、走っているわけでもないのに呼吸も短くなっていった。
おまけに、風の音に混じって雑音が聞こえてくる。すぐ耳元で枯れ草が擦れるような、そんな音が。漠然と、聞き覚えのあるものだと思う。なのに、それ以上の記憶が掘り起こされず、海燕はいじらしく感じた。
「――今日は、みんなよう食べるねえ」
声が、聞こえる
はたとして、海燕はその声の残り香を辿って視線を這わす。民家同士の間に伸びている細い路地から、それは香ってきた。
――海燕姐姐
気がつくと、足はそちらに伸びていた。
光が薄れていくそこは、あの国の生活を彷彿とさせて、故意に蓋をしていた記憶がまざまざと蘇ってくる。
思い出したくない――のに、海燕自らそれを求めていた。まるで、落としてしまった宝物を拾うべく、底なし沼に手を突っ込んでいるように。
――にゃあ
不意に足元にすり寄ってきたのは、一匹の猫。餌を乞うていると思ったが、目の前を見て、その考えもすぐに消えた。
複数の猫に囲まれた、女子がいた。“あの子”と同じ背中のかたちをした、女子がいた。
……そうだ、あの子だ。あの国には、あの子がいた。いま、足元にいる猫のような小さな命を慈しむ子。明日の我が身が分からないのに、自分よりも小さな子どもに食料を分け与える、天使のような、優しい子。
「――あの、おねえさん……?」
女子がこちらを振り向く。初めて見た彼女の顔に、海燕は目を奪われる。優しい子と同じ黒い髪と、黒い瞳。みるみるうちにその存在に意識が吸い込まれていって、身動きが出来なくなった。
「うちに、なにかご用でしたか?」彼女が紡いだ、言葉の意味が分からない。それよりも、肩が……全身が、おもたい。世界中の重力が自分にかかっているような錯覚すら覚えた。
海燕は堪らなくなって膝をつく。息が苦しい。寒気が止まらない。足元にいた猫はどこかに行き、代わりに駆け寄った女子の腕がこの体を支えてくれた。
「おねえさんっ? 大丈夫ですかおねえさんッ」
――海燕姐姐
ああ、そう……。そうなのね。ずっと、ずっと、あなたが、よんでいたのね
耳元ではっきりと聞こえた音は、体の中にすうっと溶けていく。焦燥帯びた顔をしてこちらに向かって声を張る女子を置いて、海燕は眠るように意識を手放した。
――姐姐 海燕姐姐
あの子の微笑みが、脳裏を駆ける。そして、まるで両手で抱きしめられているような温もりが体中を巡った。そう……寒い日は、よくこうして、二人で暖をとっていた。
こちらをみつめるあの子は、とても嬉しそうにしている。肌から伝わる熱がそう伝えている。憎みもせず、怒りもせず、悲しみもせず……ただ、嬉しそうに、わらっている。ただの、願望かもしれない。しかし、今あるこの感覚が、泣きたいくらいに心地よくて、あの子がここにいるのはうそではないのだと、そう思ってしまった。
どうして……忘れてしまっていたんだろう。こんなにもあたたかいものだったのに。あの国にいた頃の、唯一の拠り所だったのに。蓋をするべきではなかったものなのに。彼女を、あの掃き溜めのような場所に置いてきてしまった。その自責の念から逃れるために、無意識に保身に走ってしまっていたのかもしれない。
しかし……わらっている。彼女は、たのしそうにわらっている。蝶のようにひらひらと舞って、自分の体の周りをくるくると踊っている。
舞に惹かれるようにして、あの子の存在をこの体に馴染ませていく。すると、さらに温もりが増して、海燕は目を閉じた。つめたい土の下にいたとは思えないくらい、彼女はあたたかい。あそびたいと言っているように、体の中で彼女の存在が大きくなっていく。
「(そう、ね……)」
あなたが、そうのぞむのなら、わたしは――
「――そのへんにしとけ」
あの子の微笑みが消える。何の遠慮もなく、何の断りもなく、その声は、海燕と彼女との間に土足で割り込んできた。
目を開けて、海燕は前を見据える。そこにいたのは、一人の赤髪の男児。射るような金色の目でこちらをじっと見つめている。男とみたらいつもなら警戒をするが、今は彼女が与えてくれる心地良さで何も考えられなかった。
さらに、全身に重力がかかる。すると、彼は肩を竦め、大股でこちらに歩み寄ってきた。
「顔、よく見てみろ。そんなにしがみついてちゃあ、こいつも道連れにしちまうぞ」
男児の声と共に、ふっと重力が緩む。なぜだか、悲しそうな、申し訳なさそうな顔をした彼女の顔が浮かんで、海燕は言葉もなく立ち尽くしていた。
「おう。分かりゃあいい」そう言って、男児はこちらに向かって手を伸ばす。すると、あの心地の良い熱がすうっと逃げていって、彼の腕へとぐろを巻くように纏わりついた。
刹那――この身を襲ったのは、果てのない恐怖。海燕は震える唇をなんとか開いて、喉を絞った。
「や、めて……」
いかないで。つれて、いかないで
改めて、男児が海燕を射抜く。見るからに温厚そうではない彼の得体のなさに心が折れそうになるも、海燕は微かに残っている彼女の余韻に縋った。
「私、は……にくまれなければ……」
頭で考えるよりも早く、口が言葉を形取っていく。
「私だけ……にげてきた……。のうのうと、いままで生きて……私は、この子を……みごろしに、した……」
だから……この身を捧げてでも、憎まれなければ
恐れで濁った言葉を聞いても、男児は何もしなかったし、何も言わなかった。相変わらず、彼の腕にはあの子がいる。時折こちらに伸びる熱風があったが、すぐさま彼の体に吸い込まれていって、彼女と触れることは叶わなかった。
すると、男児は彼女を一瞥して、ふぅん、と僅かに音を漏らした。
「こいつはな、あんたに会いに来ただけなんだと」
「ぁ、い……?」
「あァ。何かしら怨恨がある奴の“気”ってのはな、もっと吐き気がするくれえおどろおどろしいもんなんだよ」
「よく見てみろ。こいつなんかそよ風みてえだろ」こいつ、と男児が指したのは自らの腕。たしかに、言われてみれば、あの子の匂いがするとぐろは、小さなつむじ風のような穏やかさがあった。
「今の時期は色々と“出入り”がしやすいからな。こいつは海を超えてでも、あんたに会いたかったんだろうぜ」
なァ、と。男児は彼女に対して口角を上げる。すると、とぐろが勢いよくくるくると回りだして、彼の声に応えているように見えた。
……会いに来た、ということは。もう、それ以外に目的がないということ。それが果たされたこの後、彼女がどうなるのか、海燕は察しがついてしまった。
かえるのだ、あの国へ。冷たい土の下で、誰も彼女の存在など知らぬ土地で、再び、永い眠りにつくのだ。
数日間、感じていた重力は彼女そのもの。それが、消えてしまう。あの子がかえってしまう。それは、とても、さみしいことだ。やるせないことだ。たとえ彼女が望まなくても、何かしら苦痛が伴っていないと、海燕は気が済まなかった。
男児は尋ねる。怖ェか、と。こわい――そんな感情の名前かも分からないが、海燕は黙ったまま、僅かに頷いた。「ならこうしろ」
「近くに、こいつと“気”が似た女子がいただろ。そいつに手ェ握ってもらえ」
男児は、変なことを言っていると思う。なのに、彼が至極真顔でそういうものだから、海燕はその言葉を飲みこみ得ざるを得なかった。
手を握って、どうなるというのか。そもそも、見知らぬ他人の手を、あの子に似た彼女は握ってくれるのだろうか。
心外だな、と。男児は独り言のように呟いた。
「あんたの連れは、見知らぬ奴にものを頼まれたら断るような奴だったのか?」
そう言われて、海燕はすぐさま首を横に振る。「なら問題ねえ。あいつも大概だからよ」そう言って、男児はようやく歯を見せて笑った。
そして、彼は腰に携えていた黒い珠を手にかける。両手を合わせ、何かをぶつぶつと唱えているのを見て、海燕は彼が人ではないような気持ちになった。じきに、男児の腕に纏まりついていたあの子がくるくると回り、螺子が外れるようにして、彼の腕からすうっと離れていった。
彼女は、海燕の目の前にやって来る。今度は海燕の体に留まらず、この体を通り過ぎただけに終わった。全身で浴びたあの子の風。彼女がさいごに与えてくれた、ぬるま湯にじんわりと浸っているような感覚は、海燕がよく知る彼女そのものだ。
再見――あの子の風の音がそう言ったように聞こえて、海燕はしずかに目を閉じた。途方もないぬくもりを、最後まで手放さずに。
自身の意識を認知して最初に感じたのは、鼻腔を擽る変わった匂い。今まで一度も嗅いだことがないそれは、不思議と不快感はなく、海燕の嗅覚によく馴染んだ。
「おねえさんっ、大丈夫ですかッ?」
聞いたことのある声がして、海燕はゆっくりと目を開ける。ぼんやりと目の前に浮かんだのは、先程出会った女子の顔だった。
彼女の顔と一緒に、天井らしき背景が映る。そこでようやく、海燕は自分が布団の上に横たわっていることに気づいた。
「こ、こは……」
「ここはお寺です。空厳寺っていうお寺です」
「テ、ラ……?」女子の言葉の一部を聞き取って、海燕は唇を動かす。どうやら、願ってもない形で目的の場所に着いたらしい。ただ、鈴が教えてくれた尼寺の名前と一致しない。クーゲンジ、とは。なぜ、自分はそんなところにいるのだろう。
「――ちょうど、檀家さん回りの途中で通りがかった私と息子が、あなたをここまで運んできたのです」
「ご気分はどうですかな」次に聞こえてきたのは、男の声。海燕は微かに目を動かす。女子のすぐ隣に、その声の主はいた。彼は、海燕が今まで見たことがないような妙な格好をしており、かなり柔和な雰囲気を纏った人だった。
「ここは、アマデラ……?」
「いえ。あいにく、ここは尼寺ではありません。私がこの寺の住職をしております」
ジューショク――彼は今、確かにそう言った。鈴からは、尼寺とは女がいる寺としか聞いていなかった。ということは、ここは男がいる寺。しかしこの際、海燕は女じゃなくてもよかった。普段ならば考えられないことだが、彼が醸し出している温厚そうな空気に当てられたのかもしれない。
「ゴキトー……お願い、しに、来た」そう言うと、男は「では、準備をしてきますので暫しお待ちを。起き上がれるまで、ゆっくり休んでいてくだされ」と、特に訳も聞かずにそそくさと退室していった。まるで、こちらの事情をすべて分かっていたかのように。
部屋には、女子と二人きり。海燕は終始そわそわとしている彼女をじっと見つめていた。
「(……相似)」
鏡写しとまではいかないが、顔立ちといい、雰囲気といい……見れば見るほど、彼女はあの子とよく似ていた。決定的に違うことは、あの子はあの国ですでに亡くなっていて、彼女は今ここに生きているということ。
――ふと、夢の狭間で出会った男児の言葉を思い出す。きゅ、と指が丸められた彼女の両手が視界に映って、海燕はゆっくりと上半身を起こした。すると、咄嗟に女子が背中を支えてくれて、触れられた手のひらから優しい熱が伝わった。
「……あの」
「はい」
「あなたの、名前……教えてほしい」
女子は不思議そうにぱちぱちと瞬きをする。すると、ふたたび屈託のない笑みを浮かべて、こう言った。「江麻です」
「エ、マ……?」
「はいっ。えまです」
江麻はにこやかに答える。毒物でさえもいとも容易く飲み込むような危うさと、すべての弱きものを受け入れる安堵感が共存して、海燕は改めて、死んだ彼女と既視感を覚えた。
「おねがいが……ある」芯のない声とともに、海燕は自身の両手を彼女の前に差し出した。
「手、を……にぎって……ほしい」
――そっ、と。音もなく、さほど空白も空かずに、海燕の両手はの手によって包まれていた。彼女の手は自分のものよりも小さいが、じわじわと馴染んでくる熱量は、果てしなく大きかった。
……ああ、見も知らぬ私に、あなたはこんなあたたかなものを分けてくれるのね。海燕は堪らず俯いて、肩を震わせた。ぽた、ぽた、と掛け布団の上に染みていく雫がとめどなく溢れて仕方がなかった。
江麻の手に、力が込められる。くるしくも、いたくもない。ただひたすらに、やさしいだけの感覚。もう、なにもかもがおそろしく、尊い。声をころして、海燕は泣いた。遠くから聞こえる鐘の音が響いても、この空間だけは時が止まったように、彼女はいつまでも海燕の心に寄り添ってくれた。
