しながらの愛は春の味
交渉は得意だ。相手の仕草に神経を研ぎ澄ませて、頭に浮かんだ言葉を選んで舌の上に乗せてみると、相手は清々しいくらいに自分が思うようなリアクションを見せてくれる。
幼い頃から、常に誰かを欺かなければいけなかった環境に身を置かれていた。それ故に不本意に身についた芸当だったが、今はこうして職に役立っているので、あの日々も存外悪くなかったとさえ思えた。
さて、本日の日和は銃兎からとある任務を言い渡されていた。今回、人身売買人と接触してしまった在日中国人を一定期間保護するということで、彼女の同居人に、彼女がしばらく家を開ける旨を話さなければならなかった。もちろん、事の詳細は隠しながら。
普段の任務と比べれば、難易度は下の下。よって、日和が元々請け負っていた案件の片手間がてらに遂行しろとのこと。しかし、なにぶん急な話だったものだから、その同居人のパーソナルデーターを調べる暇もなく、現地までやって来てしまった。
在日中国人の同居人――外国人同士のルームシェアはよく聞く話なので、こちらも中国人かと思いきや。
「(純日本人なら前もって言っておいてくださいよー……)」
早々に任務を終えた日和は天を仰ぐ。彼女たちが住まうアパートのすぐ下で、今回の任務を言い渡した銃兎に溜息をついた。本題である交渉は数分前に終わり、日和はもうすでにお役御免となっている。
そして、今更だがヨコハマ署のデータベースにアクセスし、今しがた顔を合わせた同居人の個人情報を確認する。てっきり護衛対象と同じ中国人かと思って、最近仕事の合間にかじっていた中国語のおさらいをしていたのだが、それも無駄になってしまった。そんなことを言うと、いつかは役に立つんですからちょうどいいでしょう、と微笑む上司の顔が目に浮かんだ。この調子だと、近々問題を起こした不良外国人の仲介役を命じられそうだ。
――閑話休題。在日中国人……たしか、海燕といったか。姓もないようなので、国籍がないまま今まで生きてきたのだろう。今のことが落ち着いたら、お節介かもしれないが帰化申請のやり方も教えた方がよさそうだ。
――まあ、彼女の方はまだいい。
「(“若槻”……ねぇ)」
件の同居人は、若槻花代子。タブレットを操作しながら、日和は彼女のプロフィールに粗方目を通す。ホシにとっては、一刻も早く口を塞ぎたい人間の関係者だ。ヨコハマ出身、父子家庭――おまけに苗字も聞き覚えのあるものだったので、まさかぁ、とスクロールする指をいったん止めて、日和はひとり笑った。そこで家族構成を調べてみて、驚愕。もしかしなくとも、交番勤務の頃に世話になった若槻部長の娘だった。
部長のデスクに飾られた娘の写真を、日和は何度も見たことがある。頑固そうな見た目と反して、控えめな目で見ても娘を溺愛している彼からは、今は友達とルームシェアをしてシブヤにいると聞いていた。なるほど、世界はこんなに狭かったらしい。
「(それにしても似てないなあ~)」
日和は、数分前にした花代子とのやり取りを思い出す。顔立ちはなんとなく部長の面影がある気がするが、性格はとんでもない。ひと目見た時から、“あ、付け入る隙しかない”、と思ってしまったほどだ。日和が詐欺師ならばら早々にカモにするような、素直そうな女子だった。
海燕のことを娘の友達、と部長が把握しているということは、海燕の身の上事情を知っている可能性がある。本当にお人好しで、眩しすぎる人だ。組対に入る前の、少々ひねくれていた自分に対しても、それこそ娘のように扱ってくれ、教育を施してくれた。
……まあ、とにもかくにも。多少の驚きはあったが、今回の任務に支障はない。今は海燕の護衛役を買って出た理鶯がいるので、日和が出る幕はもうない。あとは、荷物を持った二人が出てくるのを待つだけだった。
「あのう……」
不意に、声がする。振り返ると、先程まで思考の中心にいた花代子が、日和の前に立っていた。特段これといった訳も話さず、ひとまず海燕が一週間家を空けることに同意してくれた彼女。こちらと話がしたそうなその表情から、さすがに何か思うことがありそうだ。
そんな花代子に対して、日和はにこやかに応じる。
「花代子ちゃんじゃないですか~。どうかしました?」
「その……ちょっとお話したいことがあって……」
当たりだ。日和は立ち話でも構わなかったが、花代子が言いどもっていたので、「そこの公園のベンチで話します?」と言うと、花代子は「ぜひお願いしますっ!」憂いた表情にぱっと花を咲かせた。
……分かりやすい。歳も近いし、距離を近い方が相手も心も開くだろうと思っての提案だったが、むしろ距離を詰められるのは自分の方なのかもしれない。こういう、目に見えて分かる裏表のない好意と向き合うのは、日和は初めてだった。
公園のベンチに腰をかけて、花代子がぽつぽつと話したこと――それは、海燕のことだった。花代子は、彼女と出会った経緯などをおおまかに説明してくれ、日和は隣で時折相槌をうちながら話を聞いていた。
「海燕さん、あっちの国では日本みたいな暮らし、あんまりしたことなかったらしくて。それで、最近ようやくこっちの生活に慣れてきて、自分でも何がしたいかとか、ここのところ色々考えてたみたいで、その……」
ちら、と花代子は日和を一瞥した。
「海燕さん、人見知りであんまり喋るほうじゃないから、誤解されやすいところもあるんですけど、うそを言うような人じゃないし、日本でしちゃいけないこととかも、ちゃんと分かる人で――」
あ~……なるほど
日和は花代子の言葉を聞きながら、彼女の言いたいことをパズルのように組み合わせていく。えと、その、と花代子が頻りにどもっているのは、本心を隠しながら言葉を選んでいるからだ。その本心は日和の知るところではないが、おそらくは、彼女なりに“婦警”という立場の自分を意識しているのだろう。下手なことを言って、海燕に何かしら害が生じないように。そんな綱渡りの上にいるような状況下に、海燕の身が置かれていると思っているのだ。
そう思われても仕方がないくらい、日和は花代子に事情を話していない。話の核の部分に触れることができず、当たり障りのない言葉を探している花代子。そんな彼女に息をついて、日和は警官の立場を二の次にした。
「そんな海燕さんが悪いことしてても仕方ないのであまりいじめないでください~、的な感じですか?」
「ちっ、ちがいますッ!」
よく通る声でわっと言われる。日和が目を丸くしている横で、花代子は言葉の勢いを止めずに早口で捲し立てた。
「海燕さんは日本語上手だから相手の言葉にも乗せられないし、頭も良いから悪い人に騙されそうになっても絶対に分かりますっ。というか最近だと私の方が抜けててむしろ海燕さんに注意されるくらいなんですッ」
自虐を含んだ言葉に、日和はぱちぱちと瞬きを繰り返す。ここ、笑うところかなー。しかし、本人は至って本気だったので日和は最後まで口を閉じておいた。
「私、海燕さんのことは海燕さんとしか見てないですし――あ、そういう考えが危ないって本人にも言われるんですけど……。それでも、何年も一緒に暮らしてたので、わかるんです。というか、私が海燕さんのこと疑いたくなくて、根拠とかは何もないんですけど、えぇっと……っ」
考えた末に紡ぎ出された言葉の中で、本音がちょこちょこと漏れている花代子。日和もだんだんいたたまれなくなってきて、うーん、と宙を仰ぐ。銃兎さんに後で怒られるなあ。そう思いながらも、日和は頭を悩ませている花代子の顔を覗きこんだ。
「花代子ちゃーん」
「はっ、はいッ」
「海燕さん、悪い人に騙されて悪いことしてるとか、花代子ちゃんが思っているようなことにはなってないですよ~」
「ええッ!? でっ、でも毒島さん、『訳あってとある施設に隔離する』って……!」
「あの人、誤解されやすいことしか言わないですからねー。まあ、あながち間違いでもなかったので、その時はわたしも口挟みませんでしたけど」
「施設と言っても、ただのビジホなんで」ぽかん、と口を開けている花代子に、日和は続けて言った。
「彼女は悪い人たちが悪いことをしてるところをたまたま見かけちゃっただけなんですよー」
「た、たまたま……?」
「そうです~」
「じゃ、じゃあっ、海燕さんは何も悪いことしてないんですねっ?」
「なーんにもしてないですよー」
すると、明らかに花代子がほっとしたような顔をして、先程まで強ばっていた体からへなへなと力が抜けていった。
「よ、よかったあぁ……っ」
「そんなに不安でした?」
「不安というか、なんというか……。あっ! 別に海燕さんのこと疑ってるわけじゃないですよっ。私は海燕さんのことは信じてますけど、その……他の人が海燕さんのことを信じてくれるか、分からないじゃないですか」
たしかに。この国は、少数のものに対して異質な目で見る傾向がある。海燕の取っ付きにくい性格といい、付き纏っている肩書きといい……彼女が人から好意的な眼差しを受けることは少ないだろう。
海燕がいくら弁明しても、警察が彼女のことを悪と決めつけてしまえば終わりだ。花代子は、そういうことを危惧していたのかもしれない。
「花代子ちゃんは海燕さんのことが好きなんですねえ」
「はいっ。私にとってはお姉ちゃんみたいな人です。というか家族なんです。だから、少しでも自分にできることがあったら力になりたいし、話もたくさんしたいんです」
「でも、」唐突に、花代子の声がワントーン下がった。
「海燕さんは自分のことあんまり話さない人だから、あれ聞こうかな、これ聞こうかなって思っても、あんまり触れられたくないことかもしれないし……って、結局聞けずに終わっちゃうんです。このあいだも、お仕事から帰ってきても元気なかったから、もしかして色々考えてるうちに、変なことに巻き込まれてるんじゃないかって……」
花代子が言ったことは、すべて杞憂に終わっている。それらが一気に消化されて溢れてきた安堵のせいか、彼女の顔つきもどこかぼんやりとしていた。
それにしても、日和は意外だった。花代子の性格からして、目に見えないことはあまり考えなさそうなのに。「花代子ちゃん、結構ぐいぐいいくタイプだと思ったんですけどねえ」日和がありのままそう言うと、「人との距離感がおかしいってよく言われるので、自分なりに気をつけてるんです」と、花代子は苦笑しながらそう言った。
「でも最近は、海燕さんも楽しそうでよかったなあって思ってますよっ。毒島さんともお友達みたいだし、私、海燕さんのいろんな一面が見れて、本当に嬉しいんです」
そう言って、花代子はにぱっと笑う。海燕が理鶯に向けるそれは半ば敵意に近いので、友達とは少し違うと思われるが、花代子の夢を壊すのも野暮かと思い、日和は愛想笑いだけしていた。
――それにしても。
「お二人のことに、第三者が首を突っ込むのはお節介かもですけど、」
そんな手探りの関係は、ただ無駄に体力を消耗するだけだと、日和は知っている。苦楽を共にしてこその、というもので、花代子の一方通行な気持ちだけならまだしも、海燕もまた、花代子のことを大切に思っているのは取調室で見た彼女の表情から読み取れた。
花代子は、海燕の幸福の中に自身がいなくてもいいとさえ思っている。そんなのはナンセンスだ。花代子が彼女のことを家族だというなら、尚更そうだろう。
「海燕さんみたいに内に秘めるタイプは、ありのまま当たって砕けていった方がいいんじゃないですかねえ。それこそゼロ距離で」
「そ、そうなんですか……? というか、結局は砕けちゃうんですね!?」
「それは言葉の綾なので忘れてください~。まあ、あんまりわざとらしいのもあれなんで、花代子ちゃんが何か聞きたそうな雰囲気を醸し出してたら、相手もいざ話したい時に話しやすいと思いますよー」
「き、聞きたそうな雰囲気ってどうやって出すんですか……?」
「あーそれは大丈夫です。もう十分出てると思うので」
人との距離を詰めるというのは、地雷が埋まっている大地の上を歩くようなものだ。しかし、花代子も海燕もお互いを大事に思っているのは、第三者の目から見ても明らか。余程のことがない限り、二人の関係は拗れたりしないはずだ。むしろ、何も言わずに水面下で言いたいことを、聞きたいことを燻らせていた方が、二人の間に亀裂が入るかもしれない。
「それに、海燕さんのことについてはお父さんも合意の上でしょ? ならなおさら大丈夫じゃないですかねえ。信頼できる人と一緒じゃなきゃ、あの人が大事な愛娘を他のディビジョンに住まわせたりはしませんよ」
「へ? 亀崎さん、お父さんのこと知ってるんですか?」
「若槻部長、新任の頃の教育係だったので~。わたしも、ちょっと前まではお父さんと同じ派出所で働いてたんですよー」
「えぇッ!?」
花代子が驚いている中、日和はボールペンと小さなメモ用紙を出して、自分のフルネームをさらさらと書き出した。
「まあ、それはともかくとして。海燕さんのことでも、花代子ちゃん個人のことでも、よかったら相談に乗りますよー。何かあったらここの番号に――」
あ、と日和の手が止まる。最近、仕事用の端末の電話番号が変わって、新しい番号を控えていなかった。あちゃー、と内心額を抑えるが、一度言ってしまったことを取り消すのも憚られた。
……まあ、この子ならいっかぁ。日和はしばらく迷った後、プライベート用の端末の番号を書いて、ぺりっと切り離したメモを花代子に手渡した。
「ありがとうございますっ」すると、花代子はじいっとメモを見下ろしたまま固まっていたので、日和は「どうかしました?」と尋ねた。「あっ。いえっ」
「警察の人って、なんというか、お堅そうなイメージがあったので、亀崎さんみたいに優しい人もいるんだなあって!」
満面の笑みでそう言われて、はたとする。なるべく沈黙の時間を作らないようにして、日和はすぐに「花代子ちゃんのお父さんのおかげですよ~」とはぐらかした。
番号を渡したのは、件の人身売買人と思われる不審者を見つけたら教えてほしい、という暗喩だった。これは警察としての義務だ。なのに、彼女は言葉をそのまま受け取って、あろうことか“優しい人”という印象を与えてしまった。
騙した気分になるのは、仕事柄いつものこと。しかし、今回はそこにほんの少しの痛みが生じている。それほどまでに、花代子はまっすぐだ。それこそ、利己的な自分とは正反対の人間だ。彼女はきっと、損得勘定でものを考えない子なのだろう。普段は他人に教えないプライベートの連絡先を書いたのも、彼女が持っている人の良さ故なのかもしれない。
「(眩しいなあ)」
日和はふっと目を細める。花代子と話していると、干したての布団に顔を埋めた時のような心地良さを感じる。前の自分ならば、罪悪感に見舞われて距離をとっていた。しかし、今の日和には後ろめたいことなど何もない。陽の当たる場所に生きるということは、もしかしたらこういうことなのかもしれない。
正反対だからこそ、花代子が気になる。なぜそういう考えに至るのか知りたいと思う。損得など一切ない、ただの興味だけで動きたい。存外人らしくなりましたね、と銃兎の皮肉が聞こえるようで、日和は無意識に笑みを零した。
