灰白色の個体番号
「前期美化委員会委員長の、織原純です」
花芽吹く四月。のどかな気候とは裏腹に、その先輩の表情には温度がなかった。ひどく素っ気なくて、必要以上の関わりなんて眼中にないように、その顔には笑顔の破片すら見当たらない。
ああ、なるほど。一人が好きで、協調性とか空気を読むとか、そういうことを今までしてこなかった、“そういうタイプ”の人か。――そう思ったのは、一瞬だけ。先輩と目を合わせた瞬間、わたしの体は異世界のプールに投げ込まれた。今まで会ってきた人のタイプには当てはまらない、カテゴリー外の人間だった。
彼女の瞳の奥には未知の世界が広かっていた。森の中にある澄んだ湖に白鳥が佇んでおり、おもちゃの兵隊が楽器を鳴らしながら湖の周りを行進している。なにこれ。カオスでファンシーな世界に意識を持っていかれそうになったわたしは、自分の名前を名乗って、現実に戻ってきた。加えて、「亀崎さん、」と、自分の頭に書き留めるように小さく呟いたその声は、生まれて初めて木の実を口に入れたバンビの鳴き声のようだった。……いや、バンビだ。わたしの目の前に、たしかにバンビがいる。
――近寄り難い。それには、違いない。でも、ちがう。威圧的な意味じゃなくて、この人に触れたら、話しかけたら、その瞳をどこかしら濁してしまいそうで。それは、避難訓練の時にグラウンドの砂のついた上履きで綺麗な廊下を歩いた時の罪悪感に、少しだけ似ている。
この歳で、社会的に汚れているわたしは彼女の存在がひどく怖くなって、普段から他人に引いている何倍もの境界線を、先輩との間に築き上げた。
「すみませーん。純せんぱいいますかあ」
夏の尻尾をつかんだ七月半ば。おかげさまで、セーラー服も半袖率百パーセントだ。
“せんぱい”のいる三年E組があるのは、一年とは別校舎の最上階。上級生の教室がある廊下を歩くだけで、スナイパーから狙われるターゲットのように体が萎縮するらしいが、わたしはそんなことはなかった。
三年E組の板版がぶら下がっている教室に着き、廊下側で雑談をしていた複数の先輩達にさっそく声をかけた。しかし、冒頭のように名前を出しても彼女たちは顔を見合わせて、「純?」「そんな子いたっけ」と囁きあうだけだった。
……なんだ、この人達もか。零度まで下がった心境を隠すように、わたしは笑みをいっそう濃くして、「織原純せんぱいですー」と言い直した。すると、ああ、と合点がいった先輩の一人が「織原ちゃーん」と、教室の奥に向かって声を張った。
すると、教室の隅でちょろ、と何かが動く。あ、せんぱいだ。せんぱいはわたしに気づいて、少し駆け足気味で近づいてくれる。声をかけてくれた人達に小さくお礼を言ったせんぱいは、廊下まで出てきて、「亀ちゃん、どうしたの」と首を傾げた。
あ、せんぱい珍しく色つきリップしてる。あとで言おう。その前に、わたしは脇に抱えていたA4サイズのファイルを彼女に手渡した。
「隣のクラスの委員から先月分の当番表が回ってきたんで、せんぱいに渡しておこうかなーって」
放課後の委員会活動のときでも全然よかったけど、それだとここに来る口実がなくなってしまう。
でも、素直なせんぱいはわたしを問い詰めることなく、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。すかさず、わたしは次の話題へ飛ぶ。
「せんぱーい。今日は可愛いリップしてますね~。デートですかー?」
「ちがうよ。最近、花粉で荒れるから。薬局で割引になってたの、色つきのものしかなくて」
「へえ~。薬用にしては発色いー感じですねえ。あとでメーカー教えてもらっていいですかー?」
「うん。いいけど……」
せんぱいは下唇にそっと指先を添えた。
「色、派手かな。先生に怒られるかな」
「だいじょーぶですよー。スカート丈膝上三センチ以上のわたしが言うから間違いないです~」
「うん。わかっ、た?」
せんぱい、そこで頷いちゃだめですよ。校則破ってるわたしが言うから、説得力なくなるんですよ。またわたしに騙されてる。けど、語尾が疑問っぽく上がるようになったのは進歩かもしれない。前まではオレオレ詐欺に引っかかりそうなくらい、この人は素直な先輩だったから。
「ところでせんぱい、さっき何してたんです?」
「何も。家庭科室にお弁当取りに行こうかなって思ってた」
「え~。わたしグッドタイミングじゃないですかあ。よかったらご一緒してもいいですかー?」
「うん。でも亀ちゃん、お弁当だったっけ」
「まさかぁ。わたしは死ぬまでコンビニに依存する人間です~。早くしないと休憩時間終わっちゃいますし行きましょー」
せんぱいの気を逸らしながら、わたしは彼女の手を取って、スナイパーだらけの廊下を脱した。ここを離れる理由ができてよかった。教室に来る分はいいけど、せんぱいと話してるだけでさらに注目を浴びるから、少し嫌だ。せんぱいが、必要以上に人目に晒されるのが、わたしはどうやら苦手らしかった。
「(せんぱい、相変わらず他の人と話してないんだなー)」
たぶん、物静かなせんぱいが誰かと話しているのが物珍しいんだろう。しかも、後輩と。わたしも、せんぱいが他の人と他愛のない話題を繰り広げている姿を見たことがない。でも、だからって、せんぱいは見世物パンダじゃないんだから、そういう反応はいただけない。
委員長だから人の前に立つことはよくあるけど、そういうのは別にいい。だって仕事だし。むしろ、普段ぼーっとしてるせんぱいが全校総会で舞台の上に立って、委員会の年内活動成果を淡々発表してる姿は、ちょっとかっこいい。
けど、当の本人は気にしてないんだろうな。人の注目とか、そういうの。気にしてないから、最高学年になっても同級生から距離を置かれてるんだろうけど。
「せんぱい、今週の日曜日になにか予定とかあります?」
「ううん。ないよ」
「じゃあ、ルミネ行きませんかー? インスタで話題のパンケーキのお店あるんですよ~。ぼっちだと入りづらいので、せんぱいが付き合ってくれるとすごい助かるんですけど」
「パンケーキ」
せんぱいの目のハイライトがわっと踊る。でも、それは一瞬で、すぐにその目は伏せられた。あれ、せんぱいって甘いもの嫌いだったっけ。でもこのあいだ、学校の帰りに一緒にクレープ食べたし、そんなことはないはずだ。
「わたしと行くの、嫌でしたかねえ」
試しに、かまをかけてみる。すると、せんぱいははっとして顔を上げた。そして、ぽそりと、薄いくちびるの上にこんな言葉を乗せた。
「……私、可愛い服、持ってないから」
「亀ちゃん、可愛いから。隣歩くの、ちょっと恥ずかしい」くぐもって聞こえた音は、わたしの胸に熱をじわじわと溢れさせた。もしも子猫とかだったら、頬を指の腹でうりゃうりゃと撫で回したいところだったが、せんぱいはそうではないのでぐっと我慢。代わりに、彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「大丈夫ですよ~。なんなら、せんぱいの服も買います? わたしプロデュースしますよ? 今ならあちこちのお店で夏服セールやってますし~」
トントン拍子で――というか、わたしが一方的にスケジュールを決めてしまう。パンケーキ食べて、ショッピングして、せんぱいの服選んで、わたしも気になってたコスメを買って……ああ、楽しい週末になりそうだ。このあいだ増えたばかりの傷の痛みが和らぐ。
わたしが話している最中、せんぱいは一切口を挟まない。乗り気じゃないかと思うけど、ちがう。終始その目は水面のようにきらきらと揺らいでいるし、普段動かない口角は微かに上を向いている。ううん、分かりづらい。
だからいっそう、なんでだろう、って思ってしまう。
「せんぱいって、同級生の友達欲しいなーとか思わないんですか?」
ぷつん。また今日も、せんぱいとの境界線を切って、乗り越える。こんなにもかわいいのに、いい人なのに、せんぱいには友達がいないらしい。比喩抜きで。人見知りではないそうだけど、休憩中は誰とも話さないでずっと寝てるらしいし、移動教室もお昼ご飯も一人で平気。だから、周りからは、“みんなといるより一人が好きな子”認定されているのだと、わたしは思う。
なんだか、もどかしい。せんぱいは、美術の授業で好きな色がなかなかできない水彩絵の具みたいだ。せんぱい、まっしろなのにな。だれも彼も、受け入れそうな感じするのにな。
せんぱいは、ううんと思案した後、わたしの顔を見上げて、きっぱりと言った。
「分からない」
「わかんないんですかあ」
「でも、休憩時間に楽しそうにお話してるの、楽しそうだなって思うし、いいなと思う。けど、私も寝たいなって思うから、たぶん、できない」
人語を覚えたてのロボットのように、せんぱいはたどたどしく言葉を落とした。「それに、」
「今年は……亀ちゃんがいるから、いいかな」
いたずらっ子のように笑ったせんぱいの顔は、時間指定で噴き上がる噴水を偶然見れた時よりもきっと嬉しいし、レアだ。
きっと、この人がまっしろすぎてみんな混ざりたがらないんだなと、そんなことを思う。あーあ、もったいない。すごくもったいない。そう思う反面、この不思議なせんぱいのことは、わたしだけが知っていればいいとも、贅沢かつ独占的なことを思った。
“織原先輩”は、よく分からない。
今まであったことのない人種だ。人見知りにしては一人で平気という顔をしてるし、かといって、オタクっぽいということでもない。高嶺の花? でも、美人というよりも小動物っぽい。一匹狼? でも、ちょっと天然だし。まるで、兄弟達との馴染み方が分からないみにくいあひるの子だ。
でも、悪い人じゃないということだけは、分かる。この前だって、偶然校舎内で会った時に家庭科で作ったって言ったクッキーくれたし(お店に出してもいいってくらい美味しかった)。
だから、わたしのことは、嫌われてないとは、思う。まあ、好きでもないだろうけど。
「(ここで寝泊まりしたいなー)」
備品点検が終わり、新品の掃除器具が大量に置いてある倉庫をぐるりと見渡して、そんなことは無理だろうと、ため息を落とす。少し埃っぽいけど、災害時用の食料とかタオルケットがあるから、物理的にできないことはないんだけどな。秘密基地にしたいくらい、ここは落ち着く。自分が上手く立ち回るために時々うそを吹かなければいけない教室よりも、家の中がこわくて足がすくむだけの帰り道よりも。
家に帰っても、何もいいことはない。だから、放課後に活動して、居残りする回数も多い委員会を選んだけど、当たりだった。こんなことなら、前期後期合わせて三年連続美化委員でもいいかも。
「(……帰りたくないな)」
最近のお父さんは特に荒れている。今のわたしのことは、きっとサンドバッグか何かに見えているのだろう。夏は半袖だからやめてほしいのに。四肢を庇うように体で受け止めるしかないから、痛みも痣もなかなか引かない。
あーやだやだ。昨日増えたばかりの脇腹の痣を制服越し撫でながら、わたしはドアを前に押す。びくともしないそれを今度は後ろに引いてみる。結果は同じ。
力任せに押したり引いたりしても、ガタガタッ、と頑固な音しかしないドアに、わたしは頭が真っ白になった。
「え……」
開かない
嘘でしょ。押しても、引いても、叩いても……ドアが開く気配はこれっぽっちもなかった。鍵は外側からしかかからないし、そもそも鍵はわたしが持ってる。見回りの先生がマスターキーで閉めた可能性もあるけど、点検中、閉めたような音はしなかった。
原因が何にしろ……ここから出られないという結果は変わらない。まっしろな頭の中で、じわじわと思考が生まれる。帰れない。帰らなくてもいい。閉じ込められた不安よりも、あの家に帰る手段をなくした安堵の方が勝っていた。
「……ま、いっかあ」
夏休みを迎えた子たちって、普段こんな気持ちなのかな。わたしは嬉々としてマットレスの上に腰を下ろす。携帯充電器はあるし、お腹がすいたら今日の夕飯として買った菓子パンも、飲みかけのピーチ水もある。ちょっと汗ばんだ体は少し不愉快だけど、こればっかりは仕方がない。家に帰るよりマシだ。
人が、そう簡単に死なないのは昔から知ってる。水道が一週間止まったときも、カビたパンだけで五日凌いだ時も平気だった。だから、大丈夫。まあ、このまま干からびても、胸から沸き起こってくる感情は特に何もないけれど。
「あつー……」
どうせ誰も来ないだろうし。わたしはシャツのボタンを全部外して、上半身はキャミソール一枚になった。生暖かい外気が素肌に触れて、気持ちがいい。人目を気にせず肌を晒すことができることの開放感といったらない。中学の時は、体育の授業があるたびにトイレで着替えていてもどうにかなったけど、今のクラスは団結力がやけに高いから、着替えの時間に一人抜けたら結構噂されるかもしれない。キャミじゃなくて薄いTシャツでも着ようかな。暑いけど。
ごろん、とわたしはマットレスに寝転がる。大きく大きく息を吸って、長く吐く。じわしわと溢れる笑みが隠しきれない。久々に、よく眠れそうだ。誰かに包まれているような安心感と包容感。意識が徐々に薄れていって、自分がいつ寝付いたのかも、覚えてなかった。
――ガタガタッ、と忙しない音がした。近づいてきた足音と人の気配に、わたしははっと目を覚ます。
「……亀崎さん?」
……バンビの、鳴き声。
早々に上半身を起こして、顔を上げる。幻聴じゃない。織原先輩だ。普段ぼんやりしている目が大きく見開かれている。そして、わたしは自分の格好を見る。冷や汗がぶわわっと溢れた。
なんで、いるの。どうやって入ったの。見られた。見られてる。腕の痣も、肩の火傷跡も――ぜんぶ。なにか、言わなきゃ。大丈夫、上手くごまかせる。今までだって、あぶない時はそうやってごまかしてきた。
――だから、今回も、大丈夫だ
「わ~。よかったです先輩が来てくれて~。実は入学式で色々揉めて、クラスメイトにいじめられてたんですよー。今日も備品の点検してたらここに閉じ込められちゃって、シャツも脱がされてこのザマです~。この痣も跡も先週クラスメイトに箒で叩かれてできちゃって、ほんといやになっちゃいますよねえ」
嘘しかない台詞を織原先輩にこれでもかと押し付ける。いつもみたいに何も考えてないような顔で、“そっか”と言ってほしい。言ってもらわなくちゃ困る。先輩の顔が素面で見れない。次は、先輩に他言させないようにするための台詞を、頭をフルに回転させながら考えていた。
すると、織原先輩がしゃがんで、四つん這いになりながらマットレスまで上がってくる。わたしが反射的に後ずさってしまうと、先輩はぴた、とそこで静止した。
「……亀崎さんのクラスに、煙草吸ってる子、いるの」
「え、」
「だって、その跡……」
根性焼き
一番口にさせてはいけないような人に、そんな言葉を紡がせてしまった。わたしは肩口にあるであろうクレーター跡を手で隠す。図星だった。でも、普通の人ならこんな痣見ても、生まれつきとか、そう思うはずなのに。そんな、即答できる人なんて――
また、織原先輩と目が合う。その距離は、一メートルもないくらい。先輩は視線をマットレスに這わせながら、こんなことをぽつぽつと落とした。
「私、高校に上がる前までは施設にいたんだけど、親に、そういうこと受けた子とか、うちによく来てたから」
「施設、って……。先輩、親いないんですか」
「うん」
織原先輩はなんでもないような顔で頷いた後、「ごめんね」と言いながら、目線を下げた。
「そういうのは、あんまり触れられたくないことって、施設長から聞いてたんだけど、私、思ったこと、すぐ言っちゃって……これ、私の悪い癖、なんだけど。亀崎さんがいいなら黙ってるし、私もこのことは忘れる……ことはできないかもしれない、けど……努力は、するから」
「いや、あの……むしろ、なんかすみません。変なの、見せちゃって」
たどたどしく言葉を紡ぐ織原先輩がなんだか痛々しく見えて、気がついたらそんな言葉が出てきた。
もぞもぞとワイシャツを着ながら、スクールバッグに手をかける。なんだか、いつも以上に家に帰りたくなくなってしまった。はあ、と無意識に息が零れると、織原先輩がじぃっとわたしの目を見ながら、こんなことを言った。
「亀崎さん、今日、うち来る?」
「えっ」
「私、今一人暮らししてるの。お布団もあるし、着替えも貸すし、下着もコンビニで買えばいいし」
「え、あの、せんぱ――」
「あと、今日は唐揚げにするの。下味も三日前から漬けてあるし、もも肉もむね肉も軟骨も買ったし、かわもあるよ。亀崎さん、鶏肉好き? 揚げもの平気? 苦手だったら、材料あるからチキンカレーも出来るよ」
……わたし、もしかして今、食べ物で釣られてる?
先輩の目がこれまでになくキラキラとして、弾丸のように放たれる言葉が止まらない。先輩、そんなに喋れたんですか。というか、圧がすごい。好きなのかな、唐揚げ。どちらかというときゅうりとかレタスとか味気なさそうなもの好きそうな顔してるのに、結構油っこいもの好きなんですね。
「……ふっ」
一度吹き出したら、止まらなくなった。“お付き合い”以外で声を上げて笑ったのは久々だった。止まらない。お腹痛い。先輩も目を丸くして蹲ったわたしを見ているに違いなかった。
「はー……わらったわらった」一息つく頃には、会話の流れで備品室を出ていた。というか、どうして開いたんだろう。さっきまでビクともしなかったのに。ドアの鍵を締めながらそう思っていると、織原先輩が口を開いた。
「ここ、建て付け悪いから、たまに開かなくなるの。鍵がまだ返却されてないって先生から聞いたから、もしかしたらって思って」
「へぇー。というか、先輩はどうやって開けたんですか?」
「開け方、コツがあるの。ドアノブを左回りにちょっとだけ捻りながら開けると開く。今度、業者さんが来て修理してくれるんだって」
「ふぅん。やけに詳しいんですね」
「去年、私も亀崎さんと同じことになったから。一応、このあいだの集まりの時に建付けが悪いことは言ったんだけど、一年生だけ抜き打ちテストがあったみたいで、その時亀崎さんもいなかったから」
「あー……そういえばそんなことも――っていうか、えっ、先輩の時は誰か来てくれたんですか」
「ううん。自分で出た。窓から」
「窓から!?」
ここ、三階なんですけど? わたしが窓の外と織原先輩を交互に見ると、「パイプを伝って、二階まで降りて、職員室にいる顧問の先生に知らせたんだけど、すごく怒られた」と先輩はちょっと拗ねたように唇を少し尖らせた。そりゃあそうだ。外から見られてたら大事件だ。自殺を図ろうとしている生徒に見えなくもないのだから。
織原先輩の印象がバンビからアライグマに変わっていく。気がついたら、わたしは会話の流れを切って、自分から話題を投げかけていた。
「織原先輩って、人に興味ないのかと思ってました」
「……どちらかと言えば、ないかも」
「やっぱり」
「でも、仲良くなりたくないわけじゃないから」
「ただ、ちょっと……なんというか、人付き合いが、苦手なだけで」居心地が悪そうにぼそぼそと呟く先輩が、ひどく人間らしくて、びっくりした。この人も言い訳とかするんだ、と。同時に、誤解を生みやすい人なんだな、とも思った。人との距離感が分からないのかな。わたしみたいに、適当に付き合っておけば揉め事とか巻き込まれないし、自由に動けて楽だけど。先輩は範囲が狭い分、もっと奥深なところで人と繋がりたいのかな。
――知りたい。先輩への漠然としたそんな欲求が、わたしの胸を満たした。
「織原先輩って、どうして美化委員になったんですか? しかも委員長。あんまり柄じゃなくないですか?」
というか、まだ返事してないのに先輩の家にお泊まりする流れになってるけど、いいのかな。でも、きっと、この人はもうそのつもりだ。だって、今もわたしの質問の意味を懸命に考えて、答えようとしてくれている。
「……北校舎の東廊下、知ってる?」
「東廊下? ああ~、床が超汚いところですか? 武道場の真ん前だからか、やけに汚れてますよねー」
「うん。二年生の頃の掃除区域だったから、掃除してたんだけど、床の汚れが全然落ちなくて。でも、美化委員ならちゃんとした薬品使って掃除できるって、先生に言われたの」
「へえ……」
「だから、二年の後期に美化委員になって、やりたいこともあったから、三年生で委員長になった」
「へ? それだけですか?」
「うん」
「……ちなみになんですけど、やりたいことって?」
「委員長権限で、大掃除の時だけちょっとお高い掃除用薬品を全校のみんなが使えるようにしました」
どや、と得意げに胸を張る織原先輩に、わたしはまたしても声を上げて爆笑してしまった。
「――亀ちゃん?」
ふっと意識が現実へと浮上する。隣から聞こえたせんぱいの声に、「なんですかー?」と応えながら、前方をちらっと伺う。お店に並んでから三十分は経つのに、ほんの少ししか動いてない行列。さすがは人気店。買い物する前に並んでおいてよかった。
「列、進みませんねえ。せんぱい、足疲れてないですか? 待ってるのだるいでしょ」
「ううん、平気。それに、こうして待ってるのも楽しい」
楽しいといっても、さっきからせんぱいはメニューとショーケースの中にある食品サンプル見てるだけだけど。まあ、せんぱいが気を遣う時はすぐ分かるので、本人がそう言うなら信じよう。
せんぱいと一緒にいられるのは、あと半年と少し。聞くところによると、せんぱいは就職するらしい。内定も決まって、来年からはシンジュクに住むそうだ。頭良いのにもったいない。わたしは知ってる。せんぱいが模試で全国順位の上位にいたことを。
せんぱい曰く、「お金ないし、奨学金借りるほど大学に行きたいわけじゃないし、早く社会人になりたいから」とのこと。そう言ったせんぱいは、なんだか恋する乙女みたいで可愛かった。
せんぱいと出会ってまだ三ヶ月だけど、わたしが最初に引いた境界線はすっかりなくなってしまった。この人に引いても無意味で、不必要だと感じた。森から出たことのないバンビと狩りの仕方が分からないアライグマを足しで二で割ったようなこの人を、どう考えても脅威の対象として見ることは出来なかった。
――だから、誰にも言ってないことを、言えないことを、わたしはせんぱいに打ち明けた。
「せんぱい」
「ん?」
「わたし、警察官になりたいんですよ」
普段のわたしの言動なら、冗談ともとれるような言葉。でも、この人なら、きっと――
案の定、せんぱいは大きく目を開いて、目の奥のハイライトがきらっと光る。数秒間フリーズした後、こく、こく、と飲み込むようにして頷いたせんぱい。顔を上げて、なんの躊躇も、おそれもなく、取り繕うばかりのわたしの顔を見て、ふ、とはにかんだ。
「うん。すごく……すごく、いいと思う」
ああ、世界中のみなさん、ご清聴ください。実はこの人、真っ白に見えてこんなにも透明なんですよ
お父さんがいる限り、わたしはきっとヨコハマからは出られない。でも、まだしばらくは鎖に繋がれたまま生きてみようと、前を向いていられる。この人に会うまで、我慢してきてよかったなと思える。
もしかしたらこれから先、せんぱいのように境界線を跨いででも知りたいと思える人ができるかもしれない、なんて。
「じゃあ、シンジュクで道に迷ったら亀ちゃんに聞くね」
「せんぱーい。市外はさすがに管轄外です~」
