薫香に降りつもる花嵐



「唐揚げを二つください」

 「あいよーっ!」と活気に満ちた店員さんの声を聞いて、私はお財布を準備しながら店内を覗いてみた。使い古された大きな釜の中から、揚げたての唐揚げが次から次へと網付きバットの上に乗せられていく。とてもいい匂いだ。この香ばしい匂いが店の外まで漂っているので、唐揚げを口に入れる前から舌がちろちろと動いてしまう。
 店員さんが唐揚げをカップの中に入れ始めたので、お財布から千円札を取り出そうとしたとき――私はふと隣を見た。

「(独歩くん、いない)」

 あれ、と首を傾げる。さっきまで隣にいたはずなのに。背後で行き交っている人混みを一瞥してから、「すみません。オレンジジュースも二つください」と付け足した。
 あまり喉は渇いていなかったけれど、一人分だけ注文すると「俺なんかのために……」と落ち込む独歩くんの顔が見えたから。今日は独歩くんのノーネガティブデーにすると決めている以上、独歩くんを落ち込ませる要因は徹底的になくさなくちゃいけない。

「(やっと、げっとできた)」

 唐揚げが入ったカップとジュース。二人分のそれを両手で包むように持って、近くのベンチに腰かけた。衣の上で油がじゅわじゅわと踊っている揚げたての唐揚げを見て、ふふ、と笑みが零れる。前回はお店が臨時休業で買うことができなかったので、無事にリベンジを果たすことができてとても嬉しい。

「純っ!? 純どこだっ!?」

 名前を呼ばれて、唐揚げから顔を上げる。人混みから出てきたのは、世界で一番かっこいい人だ。
 「ここです」慌てている独歩くんに分かるように、私は少しだけ手を上げる。ぱちん、とすぐに目が合うと、独歩くんは急ぎ足で駆け寄ってきてくれた。

「ごっ、ごめん……ッ! キャッチー、の人に……ッ、つかま、ってて……ッ!」
「いえ、私こそすみません。一人ですたすた行ってしまって」

 私が謝ると、独歩くんは首を横にぶんぶんと振った。「いや、スルーできなかった俺が悪いから……。というか、純はすごいな……。俺とは別の人に話しかけられてたのに、聞こえてないみたいに颯爽と歩いていって……」と独歩くんは息を整えながら、独歩くんを置いていってしまった私をフォローしてくれる。それに褒めてすらいる。なんて優しい人なんだろう。私は独歩くんの分の唐揚げとジュースを渡した。

「念願の唐揚げ、げっとできました。ジュースも一緒にどうぞ」
「あ、ありがとうっ」

 隣に座った独歩くんは唐揚げよりも先にジュースを手に取った。じゅうぅ、と長い時間ストローをくわえたあと、ぷはあっ、と水から上がったように顔を上げた。やっぱり、喉が渇いてたんだね。おかげで、独歩くんの顔色はさっきよりも生き生きしているように見える。ジュースも一緒に買ってよかった。
 次に独歩くんは、唐揚げのカップを持って爪楊枝に刺さっている唐揚げを持ち上げる。衣を纏った大ぶりの鶏肉からはあつあつの湯気が立ち込めている。はふっ、と一口食べて、もぐもぐと咀嚼している独歩くんをじっと見つめた。

「ん……! ここの唐揚げうまいなぁ!」
「それはよかったです」

 自分の好きなもので、好きな人が喜んでくれる――こんなにも嬉しいことはない。独歩くんの笑顔が見れたところで、私も爪楊枝を摘んだ。
 熱々の衣はさくッと香ばしく、一度噛めば肉厚の鶏肉から肉汁がぶわっと溢れてくる。噛めば噛むほど衣に味が染みて、とても美味しい。何個でも食べられるくらい美味しい。あ、皮のところがある。嬉しい。衣と一緒に噛むと、上質な脂の味が口の中に広がった。
 次から次へと食べてしまいたいけれど、独歩くんが「た、食べるの遅くてごめんッ」とならないように、独歩くんとペースを合わせる。なんだったらもうひとカップ食べたいけれど、あまりたくさん食べるとはしたないと思われるかもしれないから、ちょっとだけ我慢する。もしも独歩くんがおかわりするなら、それにあやかることにした。


 有給がまとめてとれた――数日前、独歩くんが家に帰ってきて、“ただいま”のあとに言った言葉。独歩くんの口から“有給”と“とれた”の単語を合わせて聞くことはめったにない。私はぱちぱちぱちと拍手をしたあと、独歩くんと同じくらい嬉しくなってしまって、夕食にもう一品追加してグラタンを作った。メインはナポリタンなので組み合わせはばっちりだ。
 そして、さらに嬉しいことは続く。独歩くんはその貴重なお休みに、このあいだ一緒に行けなかったナゴヤ観光のリベンジをしようと言ってくれた。さらに嬉しくなった私はピザをとろうと提案したけれど、「だ、大丈夫っ! 純のご飯だけで十分だからっ!」と止められてしまった。

 新幹線内で数時間過ごし、宿泊先のホテルにスーツケースを預けて、いざナゴヤ観光――とはいってもほぼノープランだった。私はあの時食べることができなかった唐揚げを食べられたらよかったのでそう言うと、「じゃあ、まずそこに行こう」と独歩くんは快く賛成してくれた。
 滞在時間は限られているけれど、焦ることなんてない。独歩くんがいるのなら、どこに行っても楽しいはず。それに独歩くんは、「純の行きたいところでいいよ」なんて言ってくれる。独歩くんのその優しさにお返しがしたい。私は唐揚げを食べているあいだも、独歩くんが楽しめて、休めて、喜んでくれる観光プランを頭の中で練っていた。

「少しだけ寄り道してもいいですか」

 唐揚げを食べ終えて商店街を抜けると、見知った道を歩いていることに気づいた。
 車道と歩道が一体になっている道から逸れて、薄暗い路地に入る。民家同士の石垣に挟まれるようにいたのは数匹の猫。人に慣れているのか、近づいても逃げたり威嚇したりしない。それどころか、その内の何匹かは独歩くんの周りを優雅に歩き回っている。

「えっ、ええッ……?」
「可愛いですね」

 猫も、独歩くんも。おろおろと戸惑って一歩も動けないでいる独歩くん。それにしても、独歩くんと猫――なんて素敵な組み合わせだろう。今の光景を写真に収めたいのを堪えて、私は玄関口がある家のインターホンを押した。
 ……しばらく待ったけれど、中から人が出てくる気配はない。どうやら留守みたいだった。

「純、ここは……?」
「お友達の家なんですが、留守みたいです」
「お友達って、前にナゴヤに行ったときに会ったって言ってた……?」

 私が頷くと、「そうか……。残念だな」と独歩くんは本当に残念そうに目尻を下げた。
 私はあの子に――えまちゃんに、今日ナゴヤに行くよ、という話をしてなければ、家に寄るよ、という話もしてない。なので私が悪い。やっぱり約束は大事だ。独歩くんも上司にアポ無し営業に行けと言われて行ったら、渡した名刺を目の前で破り捨てられたと言っていたし。
 それでも、会いたかったな。しゅん、とした気持ちで独歩くんにボールペンとメモ用紙を借りた私は、ちょっとした置き手紙と一緒にシンジュクで買ったお土産をポストの上に置いた。

「さて。気を取り直して、次に行きましょう」
「次行くところはもう決まってるのか?」

 そう尋ねる独歩くんに、私はマップが表示されているスマホを見せた。

「くー、げんじ……?」
「はい。この地域では一番大きいお寺みたいです。今日は茶道教室がやっていて、お抹茶とお茶菓子もいただけるみたいなので」

 ここなら独歩くんもリラックスできるはず。唐揚げを食べながら調べたところだけど、私にはもう、独歩くんがまったりとお茶を嗜んで、風情溢れる寺院の風景にほっと息をつく光景が目に浮かんでいる。
 すると独歩くんは、「純はそういうのも好きなんだなぁ」と柔らかく笑う。タイミング良く猫がにゃおーん、と鳴いたので、私もつられて微笑んだ。お茶も嫌いではないけれど、私が本当に好きなのは、独歩くんのそういう表情かおなんです。







 朝と夜はまだ冷えこむけれど、少しずつ春の兆しは見えている。どこからか舞い込んでくる梅の花びらを横目に、私たちは長い階段を上っていた。
 その途中で、ご老人や家族連れの人、小さな子供のグループの何人かとすれ違う。観光客だけではなく、ここは地元の人からも愛されているお寺みたいだった。
 独歩くんがぜえぜえと息切れしていたので適度に休みながら、階段を上りきる。すると、大きな門の前で竹ぼうきを持っている人がいた。

「あん?」
「ひ……ッ!?」

 掃除をしていた彼と目が合うと、独歩くんが悲鳴を上げた。独歩くんが初対面の人にこんな反応をするなんて……と思っていたら、よくよく見ればどこかで見たことがある顔だった。
 どこだっけ。たしか、独歩くんたちとラップをしてた気が……。チームの名前は、バッドマンじゃなくて、ゴーヤチャンプルじゃなくて、えっと――あっ。

「独歩くんを中年って言った子」
「そりゃあ十四だ。拙僧じゃねえ」
「そっか。ごめんね」

 惜しい。でも、“じゅーし”という彼と同じチームの人なのは確かだ。人違いをしてしまったので謝ると、「おう。素直なやつは嫌いじゃねーぞ」と彼は笑った。
 いい子だ、と思っていると、彼は独歩くんの方へ視線をさっと移した。

「んで? 女連れてうちに何の用だ。このあいだの続きでもしに来たか?」
「ち、ちがいますッ。僕たちはナゴヤ観光に来ただけで……っ」

 独歩くんが斜め前に一歩出たので、目の前が独歩くんの背中でいっぱいになる。私はその横からひょこっと顔を覗かせてみた。ちくちくした赤い髪の彼は、耳にピアスを何個も開けていて、話すたびに鋭い犬歯が見え隠れしている。
 お寺の前の掃き掃除をしていたということは、彼もお坊さんなのかな。でも、私が思い描いていたお坊さんとはちょっと違うかもしれない。もしかして、これがナゴヤ流のお坊さんなのかな。それとも彼の趣味なのかな。聞きたいな。そう思ったとき、独歩くんがこちらを振り向いて私にこそこそと耳打ちをした。

「純、せっかく上ったけど引き返そう……。ここじゃなくて別のお寺に――」
「君はここのお寺のお坊さんなの」

 「純んんッ……!」と独歩くんが声を殺している一方で、「おうよ」と彼は軽快に応じた。

「見ての通り、まだ修行の身だがな」
「えっ……? そ、そんな風貌で、本当に……?」
「仏さんを敬う心がありゃあ、格好なんざなんでもいいだろ。拙僧はそんな小せえことに囚われるような男じゃねえ」

 なるほど。宗教のことは分からないけれど、彼の言うことは一理あるかもしれない。ふむふむ、と一人で納得していると、前にいる独歩くんが小声で「こじつけなんじゃ……?」と呟いていた。

「つーか、ナゴヤに来るなら来るって言えや。もったいねえ。親父がいなけりゃあ一戦やるとこだったわ」
「きょっ、今日は妻もいますので勘弁してくださいッ!」
「妻だあ?」

 片目を細めて、今度は私の方を見る彼。つま先から頭のてっぺんまでじろじろ見られて、なんだかカツアゲに遭った気分になった。

「あんた、観音坂独歩のかみさんか」
「かみさん」

 あまり聞きなれない単語を拾う。妻、嫁、細君――色々と言い方はあるけれど、“かみさん”という響きも悪くない。
 “かみさん”の余韻に浸っていると、「なににやけてんだ」と突っ込まれてしまった。いけない。ここに来た用件を言わないと。

「今日、ここで茶道教室があるって聞いて来たんだけれど」
「茶道……あぁ、お前らもか」

 彼はばつの悪そうな顔をして、「悪ぃな」と一言謝った。

「今日は臨時休講だ。講師のばあさんが腰やっちまったみてえでよ」
「……そっか」

 それはかなり残念だ。せっかく独歩くんにゆっくりしてもらおうと思ったのに。私が視線をふっと下げると、「そうですかっ!」と独歩くんがはきはきと答えた。なんとなく嬉しそうな声なのはどうしてだろう。もしかしたら、お茶を嗜むのはあまり好きじゃなかったかもしれない。良かれと思って提案したことだけど、私はまた独走してしまったみたいだ。反省しなくちゃ。

「ではっ、僕たちはこれで失礼しま――ッ」
「ちょっと待て」

 独歩くんが踵を返したところで呼び止められる。石のように固まった独歩くんが人形のようにカクカクとした動きで、首だけ彼の方を向いた。

「地元ならまだしも、シンジュクから遥々来て手ぶらで帰らせんのはうちの名が廃る」

 ついてこい――竹ぼうきを地面にずりずりと引きずらせながら、彼は門を潜ってお寺の敷地に入っていった。
 ついてこい、と言われたらついていくのが定石だけど、隣の独歩くんが青ざめているので少し心配だ。調子が悪いのかな。それとも、たくさん階段を上って疲れちゃったのかな。
 独歩くんはここで休んでいますか、と話しかけようとしたところで、私の右手がぎゅっと圧迫された。

「手、握っておこうっ。ここでなにがあるか分からないから……ッ!」

 見上げると、独歩くんの必死な表情が目に入る。体は少し震えているけれど、「俺が純を守らないと……俺が……」と小声で言っている独歩くんの目はぎらぎらと光っていた。
 外で手を繋ぐ――人前では恥ずかしくてできなかったけれど、今……たしかに、ちゃんと繋がっている。それも独歩くんから――それだけで、私の心の中は大輪の花で溢れた。
 きゅん、と縮こまった胸を悟られないように、「はい」と小さく返事をして、私は独歩くんの手を握り返す。火照った顔を見られないうちに、空いている方の手で顔をぱたぱたと仰いだ。



 境内を回りながら、彼はお寺の施設を一から紹介してくれた。ここで一番大きな建物(本堂というらしい)に行くと、私が思い描いていたお坊さんがいた。親父、と彼が呼んだお坊さんは、「遠方から遥々、よく来てくださいました」とにこやかに私たちに挨拶をしてくれた。独歩くんが名刺を出した横で、「妻です」と私も頭を下げる。このやり取りをするたびに、変な顔をしていないかいつも心配になる。
 本堂で手を合わせたあと、境内を三人でざくざくと歩く。こうして歩いているあいだ、お寺にいるほとんどの人は、彼を見かけると気軽に声をかけていた。くうこう、くーこーくん、くこ、くうちゃん――老若男女、彼と話している時はみんな笑顔なので、周りからとても親しまれている男の子だということが分かる。色々な呼び方をされていたので、本当の名前は分からないけれど、ひとまず彼のことは“くうこう君”と呼ぶことにした。
 境内はとても広くて、建物も立派なものが多い。「まあ、大体こんなもんか」とくうこう君が言ったのは、案内が始まってから二十分後。私の隣で、独歩くんがほっとした顔をしている。仏様にお参りをして、心がリラックスしたのかもしれない。よかった。
 最後に寺務所というところに来ると、その中に入ったくうこう君が座布団の上に座った。

「お前ら。御朱印帳は」
「も、持ってないです……」
「はあ? んな大層な苗字持ってんのに御朱印帳の一つもねーのか」

 「うちの買ってけ」有無を言わさず、くうこう君はカウンターに御朱印帳を二冊用意する。「こんな押し売り聞いたことないぞ……」と独歩くんは小声で言っているけれど、一冊くらい持っていてもいいかな、と私は思った。
 紫色をベースに、ここのお寺らしき建物が刺繍されている、ごく一般的な御朱印帳。その記念すべき一ページ目に、メインである御朱印を書いてもらう。くうこう君は刷った墨を筆にさっと付けて、限られたスペースにさらさらと文字を書いていく。今まで快活に話していたくうこう君とは別人のような丁寧な手つきで、書いている時の雰囲気もとても静穏なものだった。
 最後に赤いインクを付けた厳かな印鑑をぽん、ぽん、と押して、ページの間に薄い紙を挟み、御朱印帳を閉じる。「おらよ」と二冊分渡された御朱印帳をめくると、そこにはとても達筆な字で書かれた御朱印。「おぉ……」と隣の独歩くんも小さく感嘆の声を上げていた。

「字、上手だね」
「ガキの頃から仕込まれてっからな。こんくらい朝飯前だ」

 「んじゃあとは――」と寺務所から出てきたくうこう君が宙を仰ぐと、「あーっ!」と外から子供の声が聞こえてきた。

「どっぽだっ!!」
「へっ!?」

 独歩くんが体を震わせる。外から砂利の音がざくざくと近づいてきて、「こっち! こっち来てっ!」と数人の子供たちによって、あっというまに外へ引っ張られていってしまった。
 「どっぽだ!」「本物だ!」「どっぽ! どっぽ!」「ぶっころすぞぉい! って言ってえ!」外で遊んでいた子供たちにわいのわいのと囲まれる独歩くん。少し困っているみたいだけど、まるで小鳥たちにごはんをあげる王子様みたいだと思った。かっこいいな、とうっとりしていたら、「ハイエナにたかられたシマウマみてえだな」とくうこう君は言う。感じ方は人それぞれみたいだ。

「ところでくうこう君」
「あ?」
「ここに夫婦円満のお守りはあるかな」

 今の独歩くんには聞こえないだろうけど、念のためにこっそり尋ねてみた。けれどくうこう君の返事は早くも――

「ねえ」
「ないんだ」
「つか、お守り買うよか具体的な悩みがあんなら、それ潰した方が早えんじゃねーの」

 「あのなよなよ旦那について悩んでんなら、話くらい聞いてやってもいいぞ」と得意げに言うくうこう君に、私は首を横に振った。

「独歩くん自身に悩みはないよ」
「ねーのかよ」
「でも、独歩くんがどう思ってるかは分からないから」
「なら本人に聞きゃあいいだろ」
「『なにもないよ』って」
「なら仏さんに祈るまでもねえだろーが」
「これから先、どうなるかが不安なの」

 今はまだ、大丈夫かもしれない。それでも、独歩くんからいつ別れを告げられるか分からない。もしもそうなった時は理由を聞いて、反省して、前向きに改善していきたい。でも、もしそれすらもできないくらい……独歩くんの意思が固かったら。
 万が一の可能性も考えたくないけれど、別れるという選択をする権利は相手にも委ねられている。私がどんなに独歩くんと一緒にいたくても、その時間は永遠に約束されてるわけじゃない。

「……まぁ、どんなに知ってるやつでも、歳を重ねりゃあ変わるもんだからな」

 静かにそう言ったくうこう君の目は、私を映していなかった。遠くにいる誰かを見ていた気がするけど、くうこう君の視線の先には誰もいない。

「だが、幸福である今この瞬間にその“もしも”の未来を考えたとして、あんたの心は救われんのか」
「ううん。ただ苦しいだけ。けど、」

 考えずにはいられない。そんなようなことを言うと、「傲慢なこった」とくうこう君は鼻で笑った。

「んなこと考えるスペースが頭ん中にあんなら、そこを幸福で埋めてみろ」
「幸福で埋める」
「心から幸せだって思ってる人間はそもそも不安なんざ抱かねーだろ。つーことは、あんたは現状にまだ満足してねえってことだ」

 くうこう君にびしっと言われてしまった私は、ぱちぱちと瞬きをする。不安を取り除くことばかり気にしていたので、くうこう君が言ったことはかなり意表を突かれた。
試しに、少し考えてみる。私にとっての幸福は独歩くん。独歩くんが幸せだと私も幸せだ。でも、今の独歩くんの幸福度は少し下がり気味かもしれない。食が細い独歩くんには美味しいご飯をたくさん食べてほしいし、睡眠時間も短いからもっと寝てほしい。独歩くんが元気になればなるほど、私も嬉しい。
 となると、独歩くんの健康が私にとっての幸福の一部で、独歩くんが健康になればなるほど、こんな不安を持つことはないのかな。そういうことなのかな。考えれば考えるほど深い穴にはまってしまいそうで、抜け出せなくなりそうだ。
 すると、穴にはまる前に「まァなんだ」とくうこう君が手を引いてくれた。

「不安の他にも妬みだの恨みだのあるが、そういう負の感情は簡単に消えるもんじゃねえ。だから、消すんじゃなく他のもので木っ端微塵に潰しちまった方が手っ取り早えって考えろ」

 ところどころ、左馬刻君みたいな言葉を使う子だ。けれど、くうこう君の言っていることは理にかなっている気がする。不思議だ。まだ見習いだと言っていたけれど、私の目にはもう彼は立派なお坊さんに見えた。
 すると、くうこう君は少し離れたところにいる独歩くんをじっと見つめている。はしゃいでいる子供たちに囲まれながら、今は彼らの保護者に挨拶をしていた。ぺこぺこと頭を下げている独歩くんを見て、くうこう君はふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした。

「あんた、あんな優男のどこがいいんだよ」
「優しいところとか、すらっとしてる体とか、タレ目なところとか、小さい子に優しいところとか――」
「あー言うな言うな。悩みは聞くが惚気は御免こうむる」

 もっとあるのにな。今度は私が面白くない顔をして、独歩くんを見つめる。一つ同じ屋根の下で暮らして、苗字が変わっても、今こうして旅行ができているのが夢みたいに思う。

「……昔の話、なんだけど」
「おう」

 初対面の人にこの話をするのは初めてかもしれない。それでも、なぜか話したくなる。聞いてほしくなる。不思議だ。私が突然切り出しても、くうこう君はきちんと目を合わせて聞く姿勢をとってくれている。

「独歩くんと結婚する前に、独歩くんに好きな人がいるって勘違いしてたことがあるの」
「へえ」
「最初はその人がお友達って気づいてなかったから、すごくショックだった」

 独歩くんに好きな人がいる――結局は私の誤解だったけれど、あの時の感覚を思い出すだけで、ひどく悲しい気持ちになる。自分の中のブレーカーが落ちたみたいに目の前が真っ暗になって、歩いている感覚も曖昧になる。生きているっていう実感が、まるで感じられなかった。

 ――「なッ、にしてるんだよ……ッ!!」

 だからきっと、最初に出会ったあの瞬間から――私の世界は独歩くんの存在で色づいていたんだと気づいた。

「私は、独歩くんの幸せの中に私がいないと嫌なんだって思ったから。もう、迷わないことにしたの」

 一度は諦めようとした。諦めようと思うことができた。けれど、今同じようなことがあったとしても、私は諦めるなんて選択はできない。私はもう、独歩くんの手を離したくない。たとえ独歩くんがなにを思っていても、私はきっと自分の欲求を優先してしまう。
 性格が良いとは言えないこの気持ちを聞いたら、独歩くんはきっと私を軽蔑すると思う。今日会ったばかりのくうこう君でさえ、初めて聞く言語みたいな顔をしているのだから。驚いているのか、引いているのか、よく分からないけれど、くうこう君の瞳がさっと陰ったのには、なにか意味があると思った。

「……そいつの幸福が叶えられねえとしても、あんたはそいつと共に在りたいと思うのか」

 もしも風が吹いていたら掻き消されていたかもしれない小さな声。私がくうこう君の言葉を飲み込んでいる途中で、彼はやってしまったというような顔で、口元を手で覆っていた。

「……今の聞かなかったことにしろ。坊さんが参拝者に問うもんじゃねえ」
「くうこう君にも好きな人がいるの」
「いねえ」
「でもさっき――」
「いねえっつってんだろ」

 ついに顔を背けられてしまった。せっかく恋バナができると思ったけれど、くうこう君は話すのは得意じゃないみたいだ。「今の話、独歩くんには内緒にしてほしいな」と言うと、「誰が言うかよ」とくうこう君はぺっと吐くように言った。

 ……しばらくすると、独歩くんがこっちに向かって走ってくる。たくさんの人とお話をしたのか、汗をびっしょりとかいていた。

「ごッ、ごめん……ッ。サインとか、握手とか、いろいろ頼まれて……っ」
「お疲れさまです。ファンサービスは大事なのでお気になさらず」

 私はバッグに入れていたオレンジジュースとハンカチを独歩くんに渡す。独歩くんの分はさっき飲みきってしまったので、私が飲まなかった分だ(今余裕がない独歩くんはそのことに気づいていないと思うので黙っておく)。
 ありがとう、と独歩くんはお礼を言うと、すぐさまストローをくわえてジュースを飲み始める。独歩くんの強ばった顔がゆるゆる溶けていくこの時間がとてもいとおしいな、と思った。

「ところで、なにもされなかったか……?」

 ひとしきり落ち着いた独歩くんが小声で尋ねる。少し考えてから、“私になにかしたかもしれない人”がくうこう君のことだと分かって、私はちら、と彼の方を見る。暇になったらしいくうこう君は、私の隣で何かをくちゃくちゃと噛んでいた。
 独歩くんの話をしていました、と言うのは少し恥ずかしかったので、ちょっぴりうそをつくことにした。

「はい。ナゴヤのおすすめスポットを聞いていただけなので」
「あ、あぁ。そうだったのか……」
「なんだ。お前ら、これから行くとこ決めてねーのか」

 くちゃくちゃという音が止む。私はくうこう君に向かって頷いた。「どこかいいところ知ってるかな」と尋ねると、「具体的にどんなとこがいいんだよ」と逆に聞かれてしまった。

「静かで、人があまりいないところとか」
「徳川園あたりならそれらしいだろうが――つか、ナゴヤまで来て人少ねえ場所行く方が珍しいぞ」
「す、すみません……。ひとまずゆっくり休める喫茶店とかでもいいんですが……」
「てめえはいちいち謝んじゃねえ」
「すみませんッ!」

 声を裏返して独歩くんが謝ると、「だからなぁ……」とものすごく嫌そうな顔をするくうこう君。そんな彼に、「ないかな。喫茶店」と私はもう一度尋ねた。

「喫茶店、ねェ……」

 くうこう君が噛んでいたのはガムみたいだ。薄い膜を張った綺麗な球体が彼の口からぷうっと膨んで出てくる。それが程よい大きさになるとぷす、と穴が空いて、萎んだガムをまた口の中に収めて噛み始めた。
 そうしているうちに、何か閃いたらしいくうこう君がスカジャンのポケットからスマホをさっと取り出した。

「ここ。行ってみろ」

 スマホをすいすいといじったくうこう君は、その画面を紋所みたいにして私たちに見せてくれる。独歩くんと一緒に覗きこむと、そこには喫茶店と思わしきお店の外観の写真が表示されている。雰囲気は良さげで、口コミも悪くない。メニューも見てみたら、スイーツだけではなくごはん系も充実している。お店の場所を確認してみると、ここから歩いて数分のところにあるみたいだった。
私は独歩くんと顔を見合わせて頷きあう。「いいところだね。よく行くの?」とくうこう君に聞くと、「まァな。客として行ったことはねえが」と、彼はまたしても不思議なことを言った。







 独歩くんは最後まで遠慮していたけど、くうこう君は門の前まで見送りに来てくれた。律儀でいい子なくうこう君に、私は手を振った。

「またね。くうこう君」
「おう。もし逃げられそうになった時は首輪でも付けとけや」

 いたずらっぽく歯を出して笑ったくうこう君に、「考えておくね」と私も微笑んだ。
 次に独歩くんへ視線を移したくうこう君は、「次会った時は一戦交えんぞ」と拳を手のひらにぱんッと打ちつける。電流が走ったみたいに体をびくッとさせた独歩くんは、「お、お手柔らかに……」と返した。こわばった笑顔だけれど、私も二人がラップするところを見てみたいな、と思った。

 くうこう君と別れた私たちは、頑張って上った階段を下っていく。行きはとても長く感じたけれど、やっぱり下る時はそうでもない。坂の上というか、山の上というか……とても見晴らしがいいここからはナゴヤの街が一望できて、こうしてみると東都と似ているところがたくさんあるな、と思った。

「純はペットでも飼いたいのか?」
「ペット?」
「さっき、首輪がなんとかって言ってたから……」

 そう言った独歩くんは首を傾げる。そんな彼の頭には、なぜか犬の耳がぴょこ、と生えて見えた。それとも狼かな。こんな些細な仕草でさえ、彼はとても愛らしい人だな、と思う。
 独歩くんの眼差しからは不安と心配……そして、その根底にある果てのない優しさが垣間見える。普段からたくさんの人に分け与えているものだろうけど、今は私だけに向けられている。
 独歩くんをひとりじめ――こんなにも大きな独占欲をもっていたら、きっと独歩くんに嫌われてしまう。それでも、私はこれ以上にない多幸感を覚えて、頬を緩めた。

「いえ。私には独歩くんがいれば十分です」

 これから先も、ずっと。
 一度離してしまった手をもう一度握る。今度は、私から。独歩くんは石みたいに固まっていたけれど、じきに握り返してくれた。独歩くんの体温でじんわりと温かくなっていく手と一緒に、心もぽかぽかとしてくる。季節とはまた別の意味で春の訪れを感じた気がして、私は今ある幸福の香りをすうっと吸い込んだ。