夜空に星は輝かないけど
良い一日だ。今日はとても良い一日だ。
新品のワイヤレスイヤホンを耳に嵌めながら、純は自分だけの世界に入り浸る。そのおかげで、人で混雑している駅前を歩いていても億劫な気持ちになることなく、純の足は軽やかなステップを踏んでいた。
表情こそ無であるも、純の頭の中ではファンファーレが鳴っていた。アンコールもお手の物。本日の戦利品であるいくつものショッピングバッグを肩に下げながら、純は今後のスケジュールを順繰りに辿っていく。
来たる週末は、少しお高めのホテルで独歩とディナー会。そのための服も本日新調した。あとは、サプライズプレゼントとして革製の名刺入れも購入。モスグリーンの革であしらわれたそれは、使えば使うほど色に深みが出てくることだろう。そして、帰宅後は一ヶ月前から予約して今日ようやく入手した、高級炭酸ボムを浴槽に投入する予定である。これで独歩の中にある純の株も急上昇。独歩の疲労も全回復。純は良妻への道を着実に進んでいた。
独歩くん、喜んでくれるかな。くれるといいな。そんなことを思いながら、そろそろシンジュクに帰ろうかと思ったその時。壁際に寄っている黒いスーツを着た男女二人組が純の目に映る。二人ともパンツスタイルで、黒いサングラスをかけていたら洋画に出てくるSPのように映ったことだろう。
さて、純が彼らに目を留めた理由は他にある。女の後ろ姿がなんとなく知人に似ていていたので、人の通行の邪魔にならないところに移動し、純はその姿をじっと観察したのだった。
「……あ、」
女が横を向く。シアカラーの髪色で、毛先が少しカールがかったセミロング。少したれ目で、鼻筋がすっと通っている可愛い子。亀崎日和。通称亀ちゃんだ。
純がシンジュクに越してからは会う機会が減ってしまったので、久々に顔を見た気がする。彼女はこんなところで何しているんだろう。青い制服を着ていないから今日はお休みなのだろうが、なぜかスーツを着ている。仕事関係かな。でも、交番勤務ってスーツ着ることあるのかな。いくら考えても、純の疑問は中々解消されなかった。
それはそれとして……向かいに立っている男と先ほどから言い争いをしているように見える。日和と認識できた今、純は彼らから片時も目を離せなかった。
――もしかすると、変な人に絡まれている? ニコイチのように見えるスーツはただの偶然。高身長で七三のヘアスタイルをしている男は、よく見ればどこか胡散臭い顔をしている。眼鏡の奥で光る目が、やたら日和に食いついていた。
ああいう人、昼ドラか何かで悪い人に賄賂を渡している役とかで何度も見たことある。人は見かけによらないというが、大切な後輩が絡まれているというのに、そんな悠長なことは言っていられない。それに、日和の笑った顔は何度も見たことがあるが、困ったり、考えたり……彼女があんなにもころころと表情を変えるのは、中々ないことだった。
「亀ちゃ――」
――ぱしん、と。遠目から見える範囲だが、今、男が日和の額を叩いた。彼女が額を抑えたのを見て、普段穏やかな波を立てている純の胸の中で、数十年に一回起きるか起きないかくらいの大嵐が一気に吹き荒れた。
男にしか眼中になくなった純。人の波に逆らいながら、彼の背後に忍び寄る。呼吸を整え、少しヒールのあるパンプスで地面をコツコツと蹴った。助走をつけるが如く、そのまま猛ダッシュで男の背中めがけて駆け抜ける。
「あれ? 純せんぱ――」
男の体から日和の顔がひょっこり覗く。しかし、沸点が最高潮になった暴走列車はもう止まらない。日和の言葉が終わるより先に、純の体は鈍器となって、男の腰にタックルを食らわせたのだった。
またやってしまった。
あれだけ暴発していた純の胸の内は、今では緩やかに波を打ち始めている。目の前にいる眼鏡の男と対峙しながら、純はしゅんと肩を落としていた。
「――なるほど。あなたは私が彼女に付きまとう変質者だと思ったわけですか」
「はい。すみませんでした。お背中は大丈夫ですか」
「ええ。これでも鍛えていますから。……で、あなたはいつまで笑っているんですか」
純と男のちょうど真ん中で、顔を真っ赤にしながらひいひい笑っている日和。さっきまではお腹を抱えて息が出来ないくらい笑い狂っていたが、しばらく経った今でも中々収まらないらしい。
しかし、彼女がこんなにも声を出して笑うのも珍しい。純がなんとなく男を見上げてみると、彼は日和の様を見て、呆れたように溜息をつくばかりだった。
「はあ~っ。面白かった。せんぱぁい、相変わらずぶっ飛んだことするんですねえ」
少し涙目になっている日和の笑顔を見て、純はひとまずほっとする。話を聞くところによると、日和は数ヶ月前に部署異動し、入間と名乗ったこの男は彼女の上司とのこと。ちなみに、さっきのは叩いたのではなくデコピンだったらしい。それでもパワハラにならないかと純は納得いかなかったが、これくらいは日常茶飯事のようで、日和はさほど気にしておらず、むしろ嬉しそうだ。これは、強がりじゃない方の笑顔。彼女が心のどこかで泣いていなければそれでいい。
しかし、遠目でよく分からなかったとはいえ、純の行動は性急すぎた。一日に良いことがありすぎて、少し浮かれていたのも原因の一つ。今なら、自分はなんでもできるスーパーマンにでもなったような気持ちになっていた。
「それにしてもよかったですねえ、銃兎さん。ぎっくり腰にならなくて。……あ、この人、わたしの高校時代の先輩なんですけどー」
「なりませんよ。あと、勝手に話進めないで頂けますか」
「純せんぱい、かなり石頭なんですよ~。学校の階段で転けて、頭から下の階まで落ちた時も無傷だったんで。信じられます? その場に居合わせたわたしは二重の意味でびっくりですよ~」
そんなことあったっけ。純が記憶のアルバムをめぐろうとする前に、再び入間の口から漏れたため息が聞こえてきたので、ふとそちらに目をやった。
……この人、よく見たらどこかで見たことがある気がする。テレビだっけ。雑誌だっけ。それとも、独歩くんから聞いたんだっけ。左馬刻君から聞いたんだっけ。興味のないことにはめったに意識が持っていかれない純。数秒考えるも、大切なところだけモザイクがかかったように思い出せなかった。
顔立ちは整っていると、思う。けど、独歩くんの方が千倍かっこいいし、愛らしさはその倍だ。まあいいか、とモザイクごと思考を振り払って、純は考えることを諦めた。
「せんぱい、今日はヨコハマでショッピングですかー? 欲しいもの買えました?」
「うん。たくさん買えた」
「いいなあ~。わたしなんか、最近休みなしでこの人にこき使われっぱなしですよ~」
「そっか。今度、また一緒に行こうね」
わあん、と純の胸にうなだれる日和。彼女の肩を軽く抱いてぽんぽんとあやしていると、それを興味深そうに見る入間の眼差しを純は捉えた。
……物珍しいというより、少し、睨まれているような。そんな感情をぶつけられる覚えのない純は首を傾げるも、入間はさっとこちらから視線を外して、亀崎に向かって声を落とした。
「亀崎。知人に会ったとはいえ、業務中であることを忘れてもらっては困ります」
「分かってますよ~。でも、少しくらい息抜きしてもいいと思いません? ほら、銃兎さんだってここ一週間ろくに休めてないじゃないですかあ」
「息抜きが許されないほど、現状は切迫しています。これ以上ふざけるようなら、私も出るところに出ますが」
……なんと。純はぽかんと小さく口を開ける。これは……どうしたことだろうか。純は分かってしまった。他人に無頓着で、人の恋事には一切関心のない純が、日和が纏っていた雰囲気が丸みを帯び、この男に親愛以上の情を向けていることを、丸々悟ってしまった。
――だって亀ちゃん、高身長で高収入、あとは顔が綺麗な人がタイプって、前に言ってた
なるほど。この人が……なるほどなるほど。ふむふむ、とひとり納得した純は、自分の体から日和をぺりっと剥がして、入間と彼女を向かい合わせに立たせる。日和の背後に回った純は、彼女の肩にぽん、と両手を置いて、まるで我が子を親戚に預ける母親のように振る舞った。
はてなマークを頭上に浮かべる日和を他所に、純は入間にこう言った。
「入間さん」
「はい?」
「亀ちゃんはとてもいい子です。頭もいいですし、手先も器用ですし、一教えたら百できる子です。料理をさせたらキッチンが燃えますが、それ以外ならオールマイティーに何でもこなせる子です」
「間違いなく九割方褒めてくれてるはずなんですけど、欠点だけ過剰に聞こえるのはどういうマジックなんですかねえ」
あはは、と笑い飛ばした日和が、純に向かってひらひらと手を振った。
「せんぱい大丈夫ですよ~。この人も本気で言ってるわけじゃないので。ですよねー銃兎さん」
「おや。冗談だと思っていたのなら些か心外ですね」
「何言ってるんですかあ。わたしがいないと困ることたくさんあるくせにー」
純による即席日和売り込みPRがどうやら伝わらなかったようだ。あれ、おかしいな。まるで蚊帳の外になっている純。日和と銃兎の言い合いを聞き流しながら、今の反省点を踏まえてもう一度チャレンジしてみることにした。
ずいずい、と純は日和を二歩前に出して、入間との距離を縮める。純もまた、彼の目と鼻の先まで来て、その鋭い眼差しに負けじと彼を見つめ返した。
「亀ちゃん、今までずっと、頑張ってきてきたので。辛いことも、悲しいことも、全部飲み込んで、ずっとずっと、誰よりも、頑張ってきたので。こんな頑張り屋さん、きっと、ヨコハマ中、日本中、どこを探しても、他にいません。先輩の、私が保証します」
だから、どうぞ、日和ちゃんのこと、よろしくお願いします
眼鏡の奥で、入間の瞳が丸く小さくなった。鳩が豆鉄砲をくらった顔、というのだろうか。私、またおかしなこと言っちゃったかな。純は思わず日和を見ようとするが、それと同時に、ぷ、と横から空気が吹き出すような音がする。これは、日和が笑いのツボに入った音だ。
「も~っ。急にどうしたんですかあ。せんぱいはわたしの母親ですか~? さすがにこの歳だと恥ずかしいのでやめてくださいよー」
「亀ちゃ――」
「あっ、そうだ。銃兎さーん、さっきの件で上に報告したいことがあったので、少し席外しますね~」
スマホを片手に取った日和はこちらを一切見ずに人混みの中に消えていった。取り残された二人。入間の纏う空気が一切読めない純は、彼を見上げた。
「……わたし、変なこと言いましたか」
「いえ、あれはどちらかというと――まあ、今回は彼女の尊厳を優先としましょうか」
そう言って、入間は腕時計を確認する。そういえば、お仕事中って言っていた。邪魔しちゃったかな。純は日和が消えた方角に目配せをするも、今のところ戻ってくる気配はなさそうだった。
「うちの亀崎が、昔あなたにお世話になっていたようで」
「いえ。むしろ、私が色々助けてもらっていた側です。亀ちゃん、世渡り上手なので」
「そうですか。……話は変わりますが、先程の件、亀崎は分かっていないようでしたが、私と彼女はそういう間柄ではありませんので。あくまでビジネスパートナーとして彼女と付き合っているので、ああいった戯れは少々困ります」
……おそらく、世の女性が卒倒する、薔薇の咲くような微笑み。その笑顔の裏に隠されたものを、純の第六感が感じ取った。沼の底にある無数の棘。一度踏み入れたら沈むだけの、底なし闇の罠。会って間もない日和と対峙した時、純は今と似たような感覚を味わったことがあった。
八方美人。裏の顔まで似た者同士――なんということだ、ますますお似合いじゃないか。これならば、ほんの少しの戯れもしたくなるというもの。純は至極真面目な顔で、学生の頃に垣間見せた日和の一部分を語った。
「入間さんがどう思っていようと、日和ちゃんは多分気にしません。それに、言っていることの七割は裏返し言葉だと思ってもいいくらい、ちょっと怖がりやさんなので、彼女から今の入間さんとの関係を崩すようなことは、きっとしません」
そう言って、純はさらに言葉を続けた。
「それに、子離れは私にとっても少し寂しいものです」
「はあ……?」
「入間さんよりも、私の方が日和ちゃんに関して知ってることはまだまだ多いと思うので。あんな目で私を見るのは百年早い、というやつです」
「……なんのことですか」
「私の見当違いかもしれないので、今のはお気になさらず。お仕事中、失礼しました。亀ちゃんが戻ってきたら、よろしく伝えてください」
入間に向かって一つ頭を下げた純は、改札口に向かってコツコツと歩いていった。先ほど外した新品のワイヤレスイヤホンを嵌めて、再び自分の世界にのめりのんでいく。
本来ならば、その世界にしか意識が向かなかったはずの学生時代。そんな中、純の頭をがしっと掴み、色々な世界へ連れ回してくれたのは紛れもなく日和だった。独歩が命の恩人なのだとしたら、彼女は心の恩人だ。一人の世界もいいけれど、たまにイヤホンを外して見渡す世界は、純一人では到底見られない極彩色が散らばっていて、とても美しく映った。
なんにせよ、大切な後輩が痛い思いをしていなければ、それでいい。昔、今まで誰にも言えなかったと、胸の内に抱えている大きな罪を吐き出した彼女。どうか今の居場所でその傷を癒して、心の中で泣いてばかりだった過去が少しでも報われますように。
そう祈りながら、純は次の曲へと世界を変えた。
