揺蕩う舟とともに星と朝とを繋ぐ



「亀ちゃん、雰囲気変わったね」

 美味しいものをたくさん食べたい気分だった。でも、特別誰かと騒ぎたいわけでもない。そういう時、お酒が飲めないこちらの都合に合わせてカフェディナーのお店をセレクトしてくれるせんぱいに対して、思慕の情がじわじわと波打ってくる。
 そんな彼女が、和風ハンバーグをナイフで小さく切り分けながら、突拍子もなくそういうことを言うものだから(昔から、せんぱいは場の空気に似合わないことを悪気なく言ったりする)、わたしはカルボナーラを巻いていたフォークを皿の縁にすっと下ろして、「え~。急にどうしたんですかあ」とおどけて言った。

「大人っぽくなったというか、なんというか」

 自分の中で、ぴったりな言葉がまだ見つかっていないらしい。せんぱいはうぅん、と首をひねって、栗色の目の奥にわたしを閉じ込める。純度百パーセント。ブティックのお店に出される前の宝石を特別に見せてくれている気がして、同性のわたしでも少し照れてしまった。

「そう言うせんぱいも綺麗になりましたよー。人妻特有の色気がばんばんです~」

 ウォーム色の照明に反射して、せんぱいの左薬指に収まっているリングがきらりと光る。以前、結婚指輪をもらったと報告を受けた時は祝福の言葉とともに、今更すぎないか、とせんぱいのものお相手を少し批難したい気分になったことは、記憶に新しい。だって、婚姻届から同棲、最後に指輪だなんて、明らかにせんぱいが愛するその彼は、順序を間違えている。
 「旦那さん、指輪渡すの遅すぎませんかー?」意地きたないわたしはせんぱいをわざと煽る。でも、わたしが掘った落とし穴の存在に気づかないせんぱいは、「これでいいの」と指輪を撫でながら、渡されたこと自体が幸福ですとでも言うように、やわらかく目を細めた。
 名前も顔を知らないその男。こんなにも可愛い人を泣かせたら、冤罪にしてでも牢屋にぶち込むと誓った。

「亀ちゃん、恋人できた?」

 閑話休題。わたしの身の回りの変化を察したせんぱいはそう言う。当たりではないけどそこそこの正解まで辿り着く彼女は、動物が持っている本能というのか、そういうセンサーを持っているようで、ものごとの核心を嗅ぎつけるのが得意だった。だから、わたしが数秒でつくった仮面を、せんぱいの目からいつでも透明に見えているんじゃないかと、いつも思う。
 「恋人……ですかあ」答えなんてないのに、わたしは皿の上に乗ったベーコンを色のない目で見つめる。そして、時間を稼ぐようにフォークを口に運んで、今食べるのでいそがしいですよ、というメッセージを含みながら、ゆっくりと咀嚼を繰り返す。

「んー……。どちらかというと、両思いのセフレ、みたいなー」

 飲み込んだ後、歯切れの悪い言葉をテーブルに落とす。すると、「両思いのせふれ」と、せんぱいは丁寧に復唱した。彼女の口からセフレだなんて破廉恥な言葉を言わせてしまったことに、少しだけ罪悪感を覚えてしまった。

「その人も、好きなの。亀ちゃんのこと」
「それはもう~。ご飯作ってくれますしー、仕事頑張ったら頭撫でてくれますしー」

 かなり……それはもうかなり曲解して、わたしは鼻高々に言う。すると、「そうなんだ」とまろい声色で言うせんぱい。ああ、やっぱり、せんぱいはもっとダークチックなドラマとか見た方がいいですよ。きっと、今彼女が思い描いているであろう甘い生活は、わたしの日常のどこにも存在しないものだ。
 基本的にインスタント食品しか食べないのを見兼ねて、手料理を無理矢理口に入れられるし(ダイエットだと言い訳をしても聞く耳を持ってくれない)、大きな案件を片付けた時には、報告を終えても立ち去らずに労いの言葉を待つわたしを見下ろして(彼からしたらきっと音を上げるのを待っていたんだろう)、諦めが交じった仕草で頭の上にぽん、と手を置くだけ。現在進行形で、少女漫画や夏に上映される恋愛映画のワンシーンを想像しているせんぱいは、さらにこんなことまで口にする。

「一緒に暮らしたりとか、結婚とか、したくないの」

 しないの、という言い方をせず、あえてその言葉を選択するせんぱいは、本当に、無自覚の策士だ。わたしは透明な盾を構えるように、瞬時に表情を石のように固くして、こちらの防衛線以上のところまで侵入されない程度にゆるりとくずした。

「せんぱーい。みんながみんな、そういう関係になりたいわけじゃないんですよー」
「でも――」
「それに言ったじゃないですか。セフレだって」

 やることやったら、それ以上の繋がりなんて必要ないんですよ
 ぞんざいな言い方になったと、言ってから気づいた。案の定、せんぱいはぽつん、と黙ってしまい、すっかり湯気の消えたハンバーグに目を落として、「……ごめんね」と静かに呟いた。
 あー……やっちゃったなぁ。さっき、目に見えない旦那さんに宣戦布告をしたわたしが、せんぱいを傷つけてどうする。でも、わたしはかなり性格がわるい。そのうえ、臆病者だ。苦い空気させた犯人のくせして、それに気付かないふりをしながら、あはは、とのんきに笑ってみせた。我ながら、卑怯なことしか考えられない。

「こちらこそすみません~。あ、せんぱい、追加で何か食べますー? わたし、最初メニュー見た時に気になってたものあって――」
「あ」

 名前負けする速さでメニューを取るも、せんぱいがやや性急に声を発したので、顔を上げる。せんぱいはじーっとわたしを見つめたかと思えば、普段はぴくりとも動かない口角をふっと上げて見せた。

「私、分かったよ」

 亀ちゃん、すごくかわいくなった
 ……微笑。まるで、生まれたての赤子に向ける、母の表情だ。今度こそ、わたしの中で生きている女優が気絶してしまった。今、せんぱいの言った“可愛い”は、きっと、容姿とか、仕草とか、そういう、目に見えて分かるものじゃない。
 そんなことないですよー。何も分からない顔をして、否定してしまいたかった。でも、本当にこの人は、いつだって、世界に存在しているなにもかもをまっしろなキャンバスの上に置いて、透明な水と混ぜて、舌を巻くような美しい水彩画を完成させてしまう。いくらきたないものでも、子供の絵本にも載せてもいいくらい丁寧に描き上げてしまって、ほら綺麗でしょう、と宝石のはまったきらきらとしたその目で、こちらを無垢に見つめ返すのだ。汚いものしか見て触れてこなかったゆえに、せんぱいの纏う光の優しさで消えてなくなりたいと思ってしまうから、いくら頑丈に作ってきた道化もなにもかも、最後には呆気なくとっぱらわれてしまう。

「ありがとう……ございます」

 へそを曲げた、子供のひとりごとだ。それでも、せんぱいはうれしそうにうん、と頷いて、冷めきって美味しくないはずのハンバーグをぱく、と口に運ぶ。たぶん、せんぱいは、わたしが可愛くないと思っているこういうところが、目に見えて分かるようになってきたから、あんなことを言ったのだろう。不本意なことこの上ない。
 でも、可愛いこのせんぱいは、何ひとつ悪くない。悪いのは……そう、わたしがつくりあげたいくつもの壁を、無慈悲なくらいに叩き壊していく人間だ。







 元来、銃兎さんは面倒見がいい。いくら奉仕したがりでも、誰だって何かしらの対価を期待しているはず。でも、彼はこちらになんの見返りも要求しないので(こちらがそういうことに誘っても根負けして渋々、といった態度が多い)、正直肩透かし感が否めない。
 まあ、そういう生真面目さに、わたしはまんまと心を射抜かれてしまったわけなのだが。

「(……まだ、ないな)」

 せんぱいとのご飯を終えた帰り道。駐車場に彼の愛車がないことを確認して、少しだけもの寂しい気分になりながら、エレベーターのボタンを操作する。小さな箱が動き出して密室に一人。ようやく肩の力がすとんと抜けた。

 一昨日、明日付のガサ入れが一件舞い込んできたのは、就業間際の夕方頃だった。明日……つまり今日非番だったわたしは、人手不足なら休日返上しようかと提案するも、すでにわたしが何十連勤していることを知っていた銃兎さんは、馬鹿かお前は、とその案をぞんざいに跳ね除けた。お前がいなくてもこのくらい回せる、とも付け足して。銃兎さんだって、わたし以上に働き詰めているくせに。また、そうやって人知れないところで、無理をする。
 頼りにされなくて悶々としているのはお互いさまだ。明日は仕事をぶんどってでも銃兎さんを早めに帰そう。そんなことを思って廊下を歩いていると、自分の部屋の前に、意外な人物。もしかしてタクシーで帰ってきたのかと思いつつ、わたしはすぐに頭を暢気な方に切りかえて、その黒い彼に手を振った。

「銃兎さーん、お疲れさまです~」

 合鍵を鍵穴に差すわけでもなく、ただドアをぼんやり見つめていた銃兎さんは、少し間を置いて、ゆっくりこちらを向く。錆び付いたロボットのような動きを見て、ああ、今回も大分きつかったんだな、と冷静に察した。でも、心中を悟られただなんて、彼のプライドが許さないだろうから、わたしは、自分は無害ですよ、と言わんばかりににこやかに近づいて、「というか、ここわたしの部屋ですよー?」と教えてあげた。
 銃兎さんの眼鏡の奥はひどく虚ろ眼で、「ああ……」とため息のような声が口から漏れる。これは……久々にかなり参っているみたいだ。もしかして今も、わたしの部屋に入ろうかどうか迷っていたところだったりして。

「せっかくですし、何か出しましょうかー? と言っても、お水かお茶くらいしかないんですけど。あ、そういえば銃兎さんって紅茶飲めましたっけ? この間知り合いの人にもらったアールグレイが――」

 玄関を開けるやいなや、銃兎さんの赤い手袋が視界によぎって、あっという間に部屋の中に押し込まれる。窮屈に締められる体。耳元で感じる息遣い。ガシャン、と静かに閉まるドアの音を最後に、視界は真っ暗闇に閉ざされてしまった。

「……一分でいい」

 ――ああ、またか。最近、こういうことが、よくある。言葉もなく、無感情に、ただ、人肌だけを求めるような、この無味な抱擁。腕の力も、銃兎さんが纏うにおいも、なにもかもがきつくて、苦しそうで、孤高として生きる彼を、わたしは海底に沈めてしまうらしい。でも、ちゃんと自分で地上に上がれるように、時間を指定するところが、まったく彼らしかった。
 そういう時、わたしはおとなしくその中に収まっている。鼻がおかしくなるような匂いを頭に充満させて、少々荒ぶっている心音を聞く。これ、中毒性あるなあ、だなんて、嫌われるから、ぜったいに言わないけど。
 はあ、と深いため息が落ちてきたのを最後に、ゆるゆると体を離される。自分が一分って言ったのに、そんな名残惜しそうにしないでくださいよ。

「もー。銃兎さん、ヤケ酒はあまりよろしくないですよー」
「んな飲んでねえよ……」

 酔っ払ってないことくらい、ちゃんと知っている。手探りで玄関の明かりを付けると、眩しそうに目を細めた銃兎さんは髪をかきあげた。顔色だけで、今の彼に必要なのは間違いなく睡眠だと頭の隅っこでひそかに思う。
 元々、悪役なんて向いていないんだ。この人は。ヒーローでいう青レンジャーみたいなポジションで、クールぶっていても、その心は赤よりも燃え滾った正義を掲げている。敵に寝返ったふりをするスパイ役なんて、そんな器用なことはできないくらい、世界に嘘がつけなくて、真面目な人なのだ。
 馬鹿だなあ。ほんとうに。だから、こうやってわたしみたいな悪者に絆されるんですよ。

「やっぱり、わたしも行った方がよかったんじゃないですかー?」
「いや……」

 銃兎さんは首を振って、「むしろいなくてよかった」と言う。ひどいですねえ、と呟くと、彼は脱力気味にドアにもたれかかった。

「子どもがいた。兄と、妹。兄貴の方が妹抱きしめながら、ガサ入れ中、ホシを拘束した俺らをずっと睨んでた。体型といい身だしなみといい、まともな生活送れてなかっただろうに、そいつらにとって、どうしようもねえヤク中でも、れっきとした母親なんだ」

 ……大方、そんなことだろうと思った。さながら、母親を奪った悪人といったところだろう。今更、この人だって、善心が痛んでいるわけじゃない。おそらく、頼まれてもいないのに、その子らの将来を勝手に見据えて、彼はこういう、人ひとり看取ってきたような顔をするのだ。

「……もし、わたしが小さい頃に、警察が父を連れていったら、たぶん、わたしもその子供と同じ反応をしたと思います」

 「でも、それは所詮子どもの主張。この国の法律がそう言うなら、どんな感情だって無意味ですよ」そういう言葉を彼が欲していないことも、知っている。逃げ道を用意すればするほど、自分を痛めつけんが如く茨の道に突き進んでいく。彼自身が、自分のことを正しいと思っていない以上、正しいですよだなんて無責任は押し付けられなかった。

「というか、それならさらにわたしがいた方がよくないですかー?」
「……お前、子ども好きだろ」

 銃兎さんが腑に落ちない顔をしてそんなことを言うものだから、ぽん、と間が空く。ぷ、と吹き出してしまったわたしは、もれなく彼の鋭い眼光をもらった。

「それ、どんな理由ですかー。さすがにそんな公私混同しませんよ~」

 ほんとうに、ばかなひとだ。ばかで、真面目で、だいすきな人だ。銃兎さんもだんだん酔いが覚めてきたのか、「お邪魔してすみませんでしたね。そろそろ部屋に戻ります」とほのかに赤らんだ顔で言った。いやいや、逃がしませんよ。踵を返そうとする銃兎さんのスーツをきゅ、と掴んで、わたしはあざとく上目遣いで彼の瞳を捕らえる。

「……今日はしませんよ。あなたも明日早いでしょう」
「いやあ、中々拝めませんからねえ。弱った銃兎さんなんて」

 彼の腹の奥に留まっているものを消化させるのも、わたしの仕事。まあ、力任せにぶつけられたいと思っている下心も、あるにはある。でも、そうしないと、いつまで経っても、あなたは応急処置をしただけでまた大きな敵に挑もうとするでしょう。そんなのだめですよ。背筋をしゃんと伸ばして、その銃弾よりも深く貫く眼差しで、正を名乗る悪も、正の皮を被った偽善も、すべて裁いてもらわないと、刑の執行を待つ側としては、とても困りますから。







 梅雨間近にしては、肌寒い夜だった。
 深夜の二時。満月に近い月光が銃兎の寝室に流れ込んでくる。数十分前まで、あれだけ痴態の色に濡れていた亀崎も、今はすっと穴に落ちたようにすやすやと眠っている。足を折りたたみ、まるで胎児のように背中を丸めこむような寝相は、本来の彼女を見せつけられているようだった。
 眠るにも目が冴えてしまい、かといって蜂蜜のようにとろりとした覚醒の仕方をしている。夢現の狭間に身を浸しながら、銃兎は指の先で唇をつん、つん、と頻りにつつく。そして、もう片方の指は、人差し指と薬指を互いに擦り付けたりして、どこか胸のざわつく時間を過ごしていた。

「すってもいいですよー……」

 所々、音の消えた枯れた声。ふと視線を落とすと、うっすらを目を開けてこちらを見上げている亀崎がいた。サイドテーブルに置いてあるカートンを一瞥して、銃兎は負けじと彼女を見下ろす。

「……吸殻落ちるだろうが」
「なら、灰皿もってきましょうかぁ」

 腕すらろくに動かせないくせによく言う。銃兎は首を振って、仕方がないと言わんばかりに、ベッドに背中を預けた。別に、お前とのキスで代用してもいいんだがな。そんな軽口を叩けるほど、銃兎は挑戦的な男ではなかった。
 以前、今のように唇をつついていたら、亀崎が、自分の体で灰皿の代用しようかと言ったことがある。それを聞いた銃兎は、それはもう、メンタルにバリヤードを張り巡らせている亀崎が落ち込むくらいに叱りつけたので、以来、彼女がそんなことを言うことはなかった。
 だから、その逆も然り。銃兎にとっての冗談が、彼女にとって長らく胸に留まる言葉になる可能性があると思ってからは、言いたいことも腹の奥に仕舞うことが多くなった。

「最近、わたしの前で吸わなくなりましたよねー」
「気のせいでしょう」
「受動喫煙なんて、今更気にしませんよー」
「人の話聞けよ……」

 だめだ。こういう夜だと、妙に気が緩む。
 あれだけ女の顔をしていたのに、今の彼女はへへ、と無邪気に笑っている。もしかすると、あれもお得意の演技……いや、さすがに違うか。事後、あまりに調子に乗った日には、今度致す時はあの痴態を動画に収めてやろうかと冷静に思った。そう、こういう大人気ないことを考えている時点で、気の緩んでいるというのだ。
 体が、鉛を纏ったようにひどく気だるい。カートンの横にあるペットボトルの水に手を伸ばしている彼女よりも先に取って、その小さな手の中にとす、と収める。「ありがとうございますー……」「起きて飲めよ」もぞもぞと蓑虫のように出てきた彼女は、蓋を開けて水をちびちびと飲み始める。小さく上下する喉を撫でたい衝動に駆られるも、せっかくベッドメイキングをしたばかりだというのに、ここで水浸しになられては二度目の後処理に追われるのは必至だ。
 ふと、銃兎はベッドの端にあるくずかごに捨てられた複数個のコンドームを一瞥し、ペットボトルを傾けている彼女を見つめる。不定期で行われるこの行為に、意味などない。あえて、銃兎は何も考えないことにしている。何も考えず、必要最低限のモラルを重視して、事に及んでいる。なにも、思っていないふりをして、彼女もまた、特に何も思っていないだろうと言い聞かせている。しかしそれでも、普段は見せることも拒まれる彼女の裸体を余す所なく見た日には、ふつふつとわき起こる、確かな独占欲が存在していた。

「……あなた、セックスの時に何考えます?」

 ぶふッ。げほごほ。えづく彼女の背中を銃兎はゆっくりとさする。どうやらタイミングが悪かったようだ。彼女の唇の間から覗いた舌が口元で光る雫を掬いとられて、じろ、と憎らしげに見上げられた。

「このタイミングで猥談ですかあ……」
「人聞きの悪いこと言わないでくれますか」

 どちらから、というわけではない。始まる動機はなんとなく、だ。吸い込まれるように唇を合わせたが最後、あとはなだれ込むようにベッドの上。長いキスの後は触れたところがないくらい亀崎の体を撫でて、彼女の内なる壁が壊れるのを待つ。首か背中に腕を回された時からは、暗黙の了解でお互い同意の上……余計なことは何も考えず、動物の交尾のように、互いの熱を求めるだけだった。
 そんな最中、彼女は終始銃兎ただ一人を見つめている。そう仕向けているのは銃兎本人に他ならないが、その意識すら銃兎が自身の手中に収めているようで、とても気分がいい。しかし、頭がまっしろになった時、銃兎ですら彼女の存在を認知できない一瞬があるというのに、亀崎はぽやぽやとしたうつろな目で銃兎を見上げるばかりだった。
 ……すべて、支配したい。こんな薄膜、破れてしまえばいいのに。ほんの僅か、うっすらと、銃兎がそんなことを思ってしまうくらいには。

「……分かりませんよ。正直、それどころじゃないもので」

 はぐらかしたようにも見えたが、色眼鏡をかけていたかもしれない。あの表情が、仕草が、無意識の範疇ならば、それでもいい。不貞腐れたように寝てしまう亀崎に、銃兎はぽつりとこう呟いた。 

「……私は、何も言ってませんからね」

 モラルとして、やっていることを、やっているだけ。だから、彼女が望めば、その奥にある目的も、やぶさかでもないのだ。
 それでも、やはり終わりを見据えたくないもので、観念した銃兎もまた、彼女に背中を向けて、眠れないだろうと分かっていてもなお、その目を深く閉じた。







 いつも、冷水のようにひんやりとした顔をしている。そんな彼が、自分の上で汗だくになりながら、乱暴に揺さぶったり、時には優しく抱きしめたりするのが、たまらなく好きだった。こんなにもきもちのいい痛みなど知らない。こんなにも泣きたくなるような快楽など知らない。亀崎は、彼と交わる夜で泣かない日など一度もなかった。
 頭がスパークして、目の前で強烈な火花がばちばちと弾ける。浅い呼吸を繰り返して、唯一、こちらに意識を傾けない瞬間の銃兎を、亀崎はいつも虚ろ眼で見上げていた。未だ、下腹部辺りにある異物と大きな脈動。薄い膜越しに伝わる彼を、少しだけ、亀崎はもったいないと思った。決して口にしてはいけない、神様が決めた禁句。嘘だと、冗談だと、言葉を被せたとしても、それは後に、濃い色になった痣となって、二人の間に浮き上がってくるだろう。

「(……ほしい)」

 たとえそれが、心からの願望だとしても。亀崎は、墓に入ってからも、そのたった一つの願いだけは心に仕舞い続けると決めていた。



 最後にナプキンを利用したのは何ヶ月前だろう。そう思い返したのがすべての始まりだった。もう何年も自然現象として処理し続けていたものを改めて意識することなど、今までになかった。アプリのカレンダーをめくって、亀崎は事の重大さを認識した。最後に来た月の記憶を辿るも、先月とか先々月とか、そういう間近にある過去の話ではなかったのだ。
 なんで、と理由を考えるよりも先に、焦燥によって随分狭くなってしまった頭の容量を駆使して、行動に移した。亀崎は、友人や仲間に頼る術をようやく覚えていたが、もしも、一番最悪な現実を突きつけられた時が怖くて、亀崎はやはり、一人でそれを全部抱えることを決めた。
 ドラックストアで買った体温計のような機械を片手に、トイレに篭る。結果を待っている間の数分が、まさに地獄だった。こんなにも、いっそ楽にしてくれ、と思ったのは生まれて初めてかもしれない。銃兎は、欠かさず避妊具をしていた。しかし、それも万全ではないことだって、知っていた。それならば、本当に望んでいる人に授けてくれればいいのにと、亀崎はぎゅう、と身を縮こまらせながら、何の役にも立たないことばかり頭の中でぐるぐると巡らせていた。
 ――怪物の目を、そうっと覗くように。亀崎は、検査器を再びその手に取った。



「……亀崎?」

 もうすぐ、昼休憩が終わる。震える足をなんとか立たせて、トイレから出てきてすぐのことだ。いま、いちばん聞きたくなかった声が、亀崎の鼓膜を犯すように揺らした。ぶる、と悪寒がして、今にも倒れそうになった体をぐ、と堪える。今にも喉上まで来てしまいそうな心臓を懸命に飲み込みながら、亀崎はゆっくりと振り返る。
 やはり、そこには銃兎が立っていた。亀崎は、毒ガスの中にいるように呼吸がまともに出来なくなる。こちらに歩み寄る銃兎が指名手配中の殺人鬼に見えて、後退したいと叫ぶ衝動を必死に羽交い締めにした。

「体調でも悪いんですか。今のあなた、まるで死人のような顔色してますよ」

 死人だなんてひどいですよー。内なる亀崎がそう答える。しかし、現実の彼女はそれどころではなかった。なにか……なにか、言わなければ。なにを、どうやって、しょうじきに、いまの、ことを、きもちを、あとは、こののどを、ふるわせて――「銃兎、さん……」

「今日、これから早退しても……いいですかね」

 もうすでに、思考回路はどこもかしこも通行止めだった。我ながら爪が甘すぎる言い訳に、普段の自分が嘲笑してしまう。しかし、今の亀崎はそれが精一杯で、唯一この場から逃げる理由として、希望すら見出していた。
 案の定、銃兎はひどく驚いた様子だった。それはそうだ。普段、高熱が出ようが外傷を負おうが、感染症ではない限りけろっと出勤している彼女が、他人に対して、いとも簡単に体調不調を訴えたのだから。
 そんな銃兎の視線から逃げるように、亀崎はその上からさらに言葉を乗せた。

「ちょっと、痩せ我慢できないくらい、気分が悪くてですねぇ……」

 嘘は、ついていない。しかし、別のところで罪悪感が芽生えつつある亀崎は、胃が痛かった。深く詮索されないことだけを願いながら、浅く短い呼吸を繰り返して、銃兎の言葉を待っていた。

「……分かりました。届出は次に出勤した時でいいので、今日はこのまま直帰しなさい」

 その言葉に、礼を言ったかも分からない。気がついたら、亀崎は更衣室に逃げ込んでいて、負傷した兵士のように冷たいロッカーに背中を預け、ずるずると腰を下ろしていた。目眩が、する。耳鳴りと、若干の吐き気も。亀崎は再度、ビニール袋に入れた検査器を見る。赤紫色の線が二本入ったそれは、これから自分が歩くであろう、地獄よりも辛い一本の道のように見えた。
 一番、なにがやるせないかと聞かれたら、今この状況に対して絶望の味がしていないことだ。むしろ、舌で転がしたくなるような珍味だった。自分以外の生命が、この体に宿っている。それも、彼との。無意識に上がっていた口角に気づいて、慌てて手のひらで隠すも、亀崎の頭上にいる神様が、この身の程知らず、と罵倒する。なにを、幸せになろうとしている。お前は、そんなものを享受できるほどの善人ではないのだと。
 ……今からなら、まだ間に合うかもしれない。亀崎は手のひらに爪が食い込むくらい硬い拳をつくって、下腹部を強く殴ろうとする。しかし、不意に過った、まだ姿も知らぬ赤子の幻影を見て、それも寸のところで終わってしまった。

「ぁ、は……っ、あはは……ッ」

 亀崎は拳を下ろして、天に向かって声高らかに笑った。何を、しているのだろう。結局、何を言ったところで、目の前の偽物のこうふくには、抗えない。昨日までくっきり見えていた部下として彼の隣に立つビジョンが、もうすでに真っ黒に塗りつぶされて見えなくなっていた。
 亀崎は、深く息を吸って、止める。吐き出す頃には、空き巣が入ったようにめちゃくちゃに荒らされた頭の中が、おおよそ片付けられていた。自分がボロを出すのが先か、銃兎が勘づくのが先か――長期戦に限っていうと、彼の方が一枚上手だ。それならば、自分ができるのは、一つだけ。亀崎は、目の前に広がる茨道を見据えて、残りの人生を費やすくらい長くなるであろう旅路に、頭の中でゆっくりとレールを引き始めた。







 終わりの見えない業務に区切りをつけて、銃兎は詰所の照明を消す。他の部署から漏れている明かりを頼りに、色のない殺風景な廊下を一人歩き始めた。
 重たいロングコートと息苦しいマフラーを引っさげて、はあ、と人知れずため息をつく。年末年始など知ったことかと言わんばかりに薬物を餌とする憎き組織は動く。まるで、冬ごもりの支度を始めるうじ虫のようだ。日本人辞めてんのか、と悪態をつきながら、銃兎は凍てつく寒さになっているであろう外に気持ちを馳せた。
 すると不意に――何かで床をはたいたような物音が聞こえる。こんな夜更けに奏でられるには少々違和感があって、銃兎はすでに重たくなった足を本来とは別の方向に進める。角を一つ曲がってみれば、そこには廊下のど真ん中でドミノ倒しのようになった書類をのそのそと拾い上げる亀崎の姿があった。

「……何やってんだ」

 銃兎は小声でぼそりと呟く。さっきの音は亀崎が転けた音だと推測できて、背中を丸めている彼女を銃兎は遠い目で見つめていた。
 いっこうに立ち上がる気配のない亀崎よりも先に、銃兎は彼女を追い抜かして一メートル先まで廊下を滑った書類を拾い上げる。視界に流れたそれは、自分が亀崎へ依頼した案件だった。頼んだのは四日前で、加えてそんなに急がなくていいと付け足したもの。四日間で仕上げた出来とは思えないそれに、銃兎は目を厳しく細める。
 未だ書類を拾うのに忙しない亀崎に、銃兎は無言で手を差し伸べる。ようやく顔を上げた亀崎は今更驚いたような顔をして、かっと目を見開いている。しかしすぐに、「なーんだ銃兎さんですかあ。驚かさないでくださいよー」とこちらの手を掴んで立ち上がった。残りの書類は銃兎がさっさと拾い上げてしまった。

「なんだじゃありませんよ。あと、驚いたのはこちらです。こんな時間まで何をやってたんですか」
「ちょっと野暮用がありましてー」
「この件に関しては急ぎではないと言ったはずですが?」
「早いことに越したことはないじゃないですかあ」

 書類を受け取りながら乾いたように笑う亀崎に、これ以上何か言ってもかわされるだろうと、今までの彼女とのコミュニケーションスタイルから銃兎は悟る。しかし、「あ、データは銃兎さんのPCに今しがた送っておいたので~」と言うので、彼女と別れるまで閉じようと思っていた口だったが、今回に限っては喉から声が飛び出した。

「この間早退したばかりの奴が必要以上に働くな。あんな何もない廊下で転ぶなんて普段ねえだろうが」
「えー? そんなことないですよー」

 「でもまあ、たしかに睡眠を削っていたかと聞かれるとそうですけど」決して笑いながら言うことではない言葉に、銃兎は一瞬、亀崎がひびの入った硝子細工に見えた。

「……俺ももう上がる。ついでに乗せてってやるから、さっさと準備しろ」
「わあい」

 気の抜けた返事だ。しかし、亀崎の足取りがいつも通り軽やかな様子を見て、少しだけ我を忘れていた胸がふっと落ち着く。
 ロッカーに寄ると言った亀崎を暖房を効かせた車内で待っていると、じきによたよたと歩いてきた。そして、トランクに勝手に何かを積み、助手席に乗り込んだ彼女は何食わぬ顔で「お待たせしました~」と言いながらシートベルトを締めている。お待たせしましたじゃねえ。

「今、何を積んだんですか」
「私物を少しだけ~。今、ロッカーの中を絶賛リフォーム中なんですよー」

 リフォームはいいが、もっと気にするところがあるだろうと思う。今すぐに小言を言いたい銃兎だったが、今はぐっと耐えて、アクセルを緩く踏む。夜のヨコハマの街を走りながら、この時間帯に流れるには少し鬱陶しく感じるラジオの音をすっと落とした。

「ロッカーよりも、あの生活感のない部屋をどうにかしたらどうですか」
「買おうと思っても、どれから買えばいいのか分からなくなるんですよねえ」

 何年人間やってんだ。人間になったばかりのアンドロイドでもあるまいし。どこまででも世話の焼ける女だと、銃兎はハンドルを握る手をきつくする。

「……今度の休みに、とりあえず一通り揃えなさい」
「銃兎さーん、わたし、次のお休みいつか知らないんですけど、むしろ来月までに公休あります?」
「再来週の金曜」
「それ、今追ってる組織が片付けばの話じゃないですかあ」
「意地でも片すんですよ。二ヶ月も追ってる奴らをこれ以上構っていられません」
「それに、大きいもの買うなら一人で行けませんよー。電車だと持って帰る時に重いですし、郵送はお金かかりますし」
「足ならあるでしょう」

 え? と言わんばかりの沈黙が降りたが、銃兎はあえて何も言わなかった。
 「そういう話の流れでしたよね。今」そう付け足すと、横目で捉えた亀崎は肩をぶるぶると震わせていた。ふ、ふ、と口から漏れる声がわらっているようで、ないているようで。銃兎はとても気になったが、目の前に広がる道路から目を離すわけにはいかなかった。

「なんだか新婚が同棲し始めて最初にやることみたいじゃないですか?」
「うるせえ家着くまで寝てろ」

 心配して損した。「はあい」と、その返事を最後に、横から飛んでくる声は止んだ。信号待ちの際にちら、とよそ見をすると、全身から力を抜いた亀崎は、窓際にもたれかかってゆっくりと肩を上下させている。どこまでも人をおちょくるのが好きな女。それを放っておけない自分もまた、仕様のない男だと思った。



 おそらく、こんな日のために、彼女は準備をしていたのかもしれない。生まれた時から、ずっと。そんな亀崎が自分の知る世界に残したものは、今まで彼女と過ごした記憶と、自身のデスクに置かれた辞表のみ。デスクも、ロッカーも、亀崎という人間が在籍していた形跡が何一つなかった。部屋に至っては解約すらされていた。電話も繋がらず、亀崎という女が最初からこの世にいなかったように。同僚に話を聞けば、かれこれもう一週間前から警官を辞める話をしていたという。入間さんには自分が言うから黙っておいてほしい、とも。
 言葉にならない憤りと途方もない虚無が、銃兎の全身を支配した。風に攫われた亀崎の足跡を探すも、目の前に広がるのは一面砂漠のような絶望。目印もなければ、同じような黄銅色の地面が広がるばかり。銃兎は、日に日に薄れていく亀崎の残像に、一度だけ、誰一人いない詰所で、これ以上ない感情を大声で吐き出したことがある。
 ――そんな話はもう、六年も前のことになろうとしていた。







 おぼろげな視界の中で、昔亡くなったはずの父と母が笑っている。歓喜よりも、ああ、夢か、という冷めた感想を抱いた自分を、痛みとも思っていない顔で二人は柔く包んでくれた。そして、猿のような見た目をした赤子の銃兎は、文字通り、瞬くあいだに成長していく。生後何ヶ月という時期から大学卒業までの記憶を美術館の絵画鑑賞のようにゆっくりと見送り、社会人になって一人暮らしをし始めてから、ようやく離人感から解放された。手も、足も、傍観するしかなかった銃兎自身の意思で、自由に動かせるようになる。
 つたなくも幸福な記憶ばかりある脳内に、銃兎は静かに自嘲した。不思議と、今ある自分の立場がぼんやりとしている。大学を卒業した自分が何をしているか、ひどく不透明だった。警察官という立場は、彼らの死があってこその道。やはりこれは夢か、と一通りの幸福を知った後では、少し虚しい気分になった。

 ――不意に、場面が変わる。気がつくと、銃兎は電車に乗っていた。地上の光のない地下鉄にも関わらず、今が夕方で、帰宅ラッシュ時ということだけ当たり前のように認知していた。端の席に座っていた銃兎だったが、近くのドアから小さな赤子を背負った母親がゆっくりと乗ってきた。銃兎はなんともないようにすく、とその場を立って彼女に席を譲るると、母親は笑顔でお辞儀をして、ゆっくりとその腰を落ち着かせた。赤子は、いつぞやに見た猿のような顔をしていた。
 すると、悪気こそない銃兎の心を察したのか、赤子が突然びゃっと泣き出した。不規則な間隔で飛び出す悲鳴に近い泣き声。斜め横に座っていた母親があやしても、車内の空気がひしひしと険悪になっていっても、赤子はお構いなしにぎゃんぎゃんと泣き続けている。顔の皮膚が涙と一緒に流れてなくなってしまうのではないかと思うほど、その顔はぐしゃぐしゃに濡れぼそっていた。

「ばあ~っ」

 ――その爆音を掻き分けて聞こえてきたのは、かなり素っ頓狂な声。見ると、母親の隣に座っていた女子高生が両手を広げて、泣いている赤子と向き合っていた。胸元のボタンを何個か空け、足も肌色面積が目立つ。夕方とは思えないくらい髪もきっちりセットされていて、いかにも今時の女子高生と典型と言わんばかりの。まさか、そんな彼女から面白おかしい声が発せられるとは思わず、銃兎は目を丸くした。
 しかし、そんな銃兎の衝撃すら諸共せず、赤子は未だ泣いている。すると、女子高生は膝上に置いていた黒のリュックサックを漁って、取り出したポケットティッシュで、びしょ濡れになった赤子の顔をふわふわと撫で始めた。は? 銃兎はさらに目を丸くする。しかし、この方法で赤子は泣き止むどころか一分も経たない間に寝てしまったのだ。もうそろそろ目が黒胡麻にでもなって落ちてしまいそうだった。
 静寂が降りた車内で、女子高生はぺらぺらと話し出した。

「これ、Twitterでやってたんですよ~。ほんとに効くんですねー」

 彼女は笑っている。女子高生は他愛もない話をして、母親は彼女に何度もお礼を言い、電車を降りた。その間際、再度自分にも小さく頭を下げて。あの不味そうな空気を救った彼女に比べれば、自分のした事など大したことなかった。再び、銃兎は空いた席に座る。気配で、隣の女子高生はスマホをいじり始めたことを察した。
 しかし次の駅で、気難しそうな顔をした老人が乗ってくる。案の定、女であり子供である女子高生を標的として定めた彼は、彼女にいくつもの罵声を浴びせた。女性差別発言と人権否定のフルコースだ。しかし、そんなことよりも、それを真顔で聞いている女子高生に、銃兎は目を奪われた。しゃんと背筋を伸ばして、彼女は老人から一度も目を逸らさない。色々言われていたが、とりあえず席を変われという意図を汲んだ彼女が腰を上げた時、銃兎はそれを制した。
 
「ここ、どうぞ」

 夢の中の銃兎も、少々意地が悪かった。含みのある言い方をすれば、老人は至極悔しそうな顔でこちらに牙を立ててきそうだったが、この高身長と目つきの悪さが幸いして、老人はぶつぶつと独り言を言いながら停車した駅で電車を降りた。今度は女子高生が目を丸くしてこちらを見上げている。しかし、銃兎は動じない。気分の良いものの後に汚泥を被せられ、その掃除が出来たと思えば、あとは何の関わりもいらなかった。
 女子高生の片方の足の靴はローファーでなく運動靴。銃兎にとって、お節介をかける理由には十分だった。



「正直、あの時は『え。なにこの人こわ』って思いましたけどねえ」

 声とともに、次の映像が始まる。銃兎はあの時の女子高生とカフェにいた。二人がけの小さなテーブルに乗っているのは空になったパフェとティーカップ、そして大量の参考書とノートがテーブルの表面を覆わんとばかりに広がっている。赤本の表面には一度は耳にしたことのある中堅大学の名前が書かれていた。
 「おい」女子高生の言葉に銃兎は突っ込む。声色と口調からあの時よりも親しい仲になったのだと推測する。彼女も「だってそうじゃないですかあ」とへら、とあざとく笑った。

「JKの足元見るなんて、顔が良くなければ許されませんよ~」
「たまたま目に映っただけですよ」
「そんなことありますー? あ、もしかして入間さん、JKフェチとか?」
「違います」

 「ふうーん?」女子高生は手の中で器用にペンを回しながら、曖昧な返事をする。濁ったその言葉は、そのまま銃兎の回りを取り囲んで、かなり後味の悪い終話になった。

「もしそうならわたし、ずっと学生がいいです」

 ぴた、と回っていたシャーペンが止まる。ティーカップを持ち上げてなくてよかったと安堵するほど、銃兎の内心は動揺していた。ため息に忍ばせた深呼吸。銃兎は目を逸らして、急に味のしなくなったコーヒーを啜った。

「違うって言ってんだろ。それ、落ちた時の言い訳にするなよ」
「もちろんです~」

 そして、銃兎は自分のものにしたばかりの心を整理し始める。こいつが高校卒業したら、隣人愛に似たこの感情をぶちまけることは、もはや決定事項のようだった。やりきれねえな、とノートにびっしり埋められた文字をぼんやりと見つめる。そこには、授業中に書いたと思われるうさぎの絵がいくつも描かれていた。







 また、場面が変わる。女子高生はいつの間にか大人の女になっていた。しかし、仕草や表情は以前のものと変わらない。彼女は、自身の魅力を時間から守ったのだと錯覚してしまうくらいには。
 彼女の膨らんだ腹に、少しだけ、心が浮き足立っている自分がいた。以前、席を譲った妊婦を思い出す。なんてことない背景の一部に過ぎなかったが、他人事ではない命があるだけで、感じ方はこんなにも違うものか。銃兎はもうじき増える肩書きを意識しながら、目の前でラーメンが食べたい、としきりにぼやく女を何度も窘めた。

「産まれたら、ラーメンよりももっと美味しいもの食べさせてあげますよ」
「もー、何言ってるんですかあ。銃兎さんと仕事終わりに食べるラーメンが一番美味しいんですよ~」

 同じ仕事をしてるわけでもあるまいし、何を言ってるんだ。そんな意味合いのことを言ったら、なぜか、彼女はかなしそうに眉をひそめた。

 ――幸福は不幸と違って奪われるものだと、銃兎は痛いくらい知っているはずだった。

 凄まじい情報量が目の前を過ぎていく。婦人科でなく救急病院、分娩室ではなく集中治療室、赤子の泣き言ではなく心電図の停止音、そして、亡骸が眠る真っ白な部屋。三日三晩葬儀に追われ、その次はマスコミからの追い討ちに、銃兎は心身ともにやつれた。『無差別通り魔殺人事件』『死者三人』『中には妊婦も』そんなテロップが街中のモニターの中で流れて、目の毒だった。家のテレビの線はとっくに切っている。「小さいより大きいものの方がいいに決まってますよー」と彼女に言われて買ったものは、やはり自分には大きすぎて、視界にすら映したくなかった。
 犯人は、薬物錯乱状態だったと聞いて、ああ、自分はどうあってもここに転ぶのだと思った。犯人の過去や家族編成が取り上げられるたびに、わらいが止まらなかった。へえ。それで? 生まれ育った環境がなんだ。奪われた側は、そんなもの知ったこっちゃない。復讐者だと世間に後ろ指を指されても構わない。正義をかざしていたはずの銃兎は、分厚い仮面を被る。悪は、悪でしか裁けない。小さな殺戮者によって、三度もかけがえのない宝を失った銃兎は、血まみれになった精神に鍵をかけた。もう、宝など作らないよう、だれにも触れられないところに、本心を押し込んだ。

 銃兎は、ひとりになった。しかし、盲目になったふりをして、その目はいつだって社会の黒い渦を見据えている。ああ、ようやく、かえってきたな。黒スーツ姿の男が胡散臭そうにわらっているのを見て、夢を魅せられた銃兎はふつりと息絶えた。







 体内の水分という水分が沸騰して、肉体もろとも消えてなくなってしまいそうになる。大声を張らなければこちらの声などかき消されてしまうくらいの蝉の音にもだんだん慣れてきて、銃兎は絵の具で塗りつぶしたような鮮やかな青空を仰いで、その眩しさに目を細めた。
 木陰で、部下が買ってきた水をすべて飲み干し、隣に佇んでいたゴミ箱に空になったペットボトルをごとりと落とす。おせえなあいつ、と腕時計を見るやいなや、「入間さーんっ!」と、弾丸のような声がびゅんっと飛んできた。
 こちらに駆け寄ってくる姿は、まるで投げたフリスビーを持ってくる犬を連想させた。ワイシャツを二の腕までたくしあげて銃兎の目の前で停止したこの男は、うちの部署でも中々珍しい人種だった。学生気分が抜けていない新卒そのものだが、仕事に対する姿勢は誰よりも熱い。むしろ暑苦しい。昔のがむしゃらだった自分と既視感を覚えて、どこか眩しく映ってしまって、銃兎は彼のことが少し苦手だった。

「あそこの公民館で聞いてみたんすけど、泊まれる場所は港近くの民宿しかないみたいです」

 今回、銃兎は彼一人連れて小さな港町を訪れていた。町のどこにいても潮の香りが漂っており、ヨコハマと違って人は少なく、漁船も何隻か泊まっている。比喩抜きで、テレビの旅番組で出てきそうな場所だ。
 美味しい魚がとれるばかりで、社会の害とは無縁そうなこの町から、とある薬物が流されている情報を聞きつけたのは一週間前。薬物の種類が今ヨコハマで流行っているものと酷似しているため、ここが核だと考えれば市内に流出しているものも、すべてとは言わないが大部分は潰すことができるとふんだ。情報を耳に入れた銃兎はすぐに出張の準備を整え、場馴れさせる意味で、今年入ったばかりの新人を同行させた。新幹線内で彼の口から発せられるマシンガントークを浴びてから、銃兎は彼を連れてきたことをさっそく後悔している。

「ちなみに、こっから車で十分くらいだそうです。タクシーはさっき呼んできました!」
「よろしい。あなたは先に民宿に行っていてください。私は少し寄るところがあるので」
「うす! ……あ、はいっ!」

 少し目を細めれば、彼は慌てて訂正した。しかし、特に悪びれる様子はなく、最後までその体育会系の笑顔が崩れることはなかった。加えて、「じゃあ入間さん、また後で!」と、いい大人が手をぶんぶんと振って、別れを告げられる。こちらの返事を求めているわけではないのか、彼はすぐに銃兎から背を向けて公民館へと走っていってしまった。かなり忙しない男だ。
 昔……同じようなことをした部下がいた。しかしまあ、彼女の方が落ち着きがあったが。記憶の残り屑と化した残像が彼と重なって、銃兎は軽く頭を振り、早々に目的地へと歩いていく。これから、情報を提供してくれた役場へ顔を出さなければいけないのだ。町の滞在期間は五日。もしも日が延びることになっても引継は済ませてあるので、ヨコハマに残った同僚たちを信じることにする。まずは拠点作り、そして情報収集だ。

 バスの停留所に向かっている途中で小さな公園を横切った時、銃兎の意識は薬物から一瞬だけ離脱した。
 ……子どもが、いた。いや、公園に子どもがいるのは別に不自然じゃない。特記すべきは、こんな昼を回る時間帯に子ども一人だけでベンチに座っていることだった。学校は……いや、今は夏休みだろう。となれば、プールか何か勉強会の帰りか、それとも登校日か――この町の勝手が分からない限り、余計なことに首を突っ込むべきではないのだろうが、職業病というものだった。幸い、約束の時間まで余裕がある。そう考える前に、銃兎はすでに公園のポールを通り過ぎていた。

「……こんにちは」

 こわがらせないよう、腰は極力下げる。蝉の声に負けないように声を張ると、その子どもはふっと顔を上げた。膝の上には宿題らしきノートがあって、真っ白だったはずのページにはまっくろの漢字でびっしり埋まっていた。宿題か。えらいな。銃兎がそう思っているのをよそに、子どもはこちらをじっと凝視している。彼の首や顔は汗でびっしょり濡れていた。

「君、一人ですか?」

 明るい声色で、にこやかに。少し迷った様子を見せて、子どもはおそるおそる頷く。彼の顎に吸い付いていた汗が、一滴だけノートの上にぽたりと落ちた。ベンチの隣に置かれた黒のランドセルは新品と言わんばかりにつるつると光沢を放っており、彼自身、見た目低学年と思わしき顔つきだった。
 しかし、子どもは銃兎が思っていた以上に落ち着いていた。彼は小さな口を開いて、「おにいさん、あつくないの?」と尋ねる。少しだけ乾いた声だった。三十路半ばを過ぎた男に言葉を選んでいるのか、それとも純粋にそう思ったのか。どちらにしろよく教育されてんな、と銃兎は思わずふ、と心から笑んでしまう。

「暑いですよ。とても。でも、スーツは仕事着みたいなものなので仕方ないです」
「しごと?」

 同時に、ここら辺じゃみない顔、とも言っているようだった。わざわざみせびかすのもどうかと思うも、銃兎は内ポケットから警察手帳を広げて見せる。それを映した途端、子どもの瞳にぱっと大きな光が灯った。

「けいさつ?」
「正解です」

 初めて、子どもは年相応の反応を見せる。すぐに仕舞おうと思ったが、「おれ、はじめてみた」と、彼があまりにもきらきらとした眼差しで手帳を見るものだから、銃兎はしばらく出しっぱなしにしておくことにした。

「あおい服、きないの?」
「ずっと前は着ていましたよ。今私がいるところはスーツが制服のようなものなんです」
「へえ……。おれ、みんなきてるのかと思った」

 たしかに、この町では交番の警官が精々だろう。銃兎は手帳を仕舞いながら、彼との距離を少しだけ縮める。

「君は、こんなところで何を?」
「うちにいるとあついから、ひるまで学校でしゅくだいしてた。でも、うちのカギ、わすれちゃったから、かあさん、まってる」
「おかあさんはこの近くで働いてるんですか?」
「うん」

 あとすこしで来る、とも彼は付け足した。見れば、彼の横にあるのは子ども用の小さなスマホ。今の時代、小学生でもスマホ持参も許されるのか。時の流れを感じた銃兎だったが、さっきから気になるのは彼の掠れた声だった。

「……少し待っていてください」

 銃兎は近くの自販機に歩いていって、適当に小銭を入れる。そして、出てきたペットボトルのお茶、加えて手持ちのハンカチを彼の前に差し出した。子どもは丸い目をさらに丸くして、銃兎を見上げている。

「宿題をやるのは大変よろしい。ですが、こんな暑い中、外にいるのはあまり関心しません。水分はしっかり摂ることです。汗もきちんと拭いてください」
「うん、わかった。これ、もらっていいの?」

 銃兎は頷く。子どもは水とハンカチを受け取った後、さっそくペットボトルの蓋を開け、本体を大きく傾けてごくごくと飲んでいる。ぷはあ、と口を離した時には、ペットボトルの半量はなくなっていた。その光景がなんとも微笑ましく、自然と銃兎の口角が上がる。

「よっぽと喉が渇いていたんですね」
「うん」
「おかあさんはいつ頃来るんですか?」
「んー……。あと三ぷんくらいっていってた」
「分かりました。私はもう行きますが、おかあさんが来るまで木陰で待っていてください。守れますか?」

 うん。子どもは大きく頷いて、ベンチから降りたと思ったら、ランドセルを背負い、すぐに木陰に駆けていった。

「おちゃとハンカチ、ありがとう。またね。おまわりさん」

 手を振る子どもに対して、銃兎もまた、軽く手を上げる。ずっと無表情だった彼だったが、最後は少し笑っていた……ような気がする。すなおで、子供なのにおとなっぽい不思議な少年だった。こんなにも穏やかな気分になったのは、制服警官の時以来だろうか。まだ、社会の裏側を覗く勇気がなかった頃だ。銃兎がこの町に来た理由を一時だけ忘れてしまうくらい、久々に“善良な警察官らしい”時間を過ごした。







 汗は尋常なくらい滲んでは落ちる。それでも、梅雨と比べれば心地良い暑さのように感じた。雑草から鼻垂れる緑臭い道も、うちの実家と比べれば可愛いものだった。地方の端っこで育った俺は、今年に入ってヨコハマの土地に足を踏み入れたばかりの人間だった。
 港町に降りると、ふと、養殖されている亀が目に止まる。うわ、でけえな。スッポンかな。まじまじと見ていて、は、と我に返る。また嫌味言われる、と思いきや、普段からにこりともしない彼もまた、水中でのそのそと歩く亀を見下ろしていた。

「……亀、好きなんすか?」

 配属されて初めて、この上司の隙を見た気がして、思わずそんなことを聞いてしまった。せめて肯定の言葉くらいもらえると思ったが、「……いえ、別に。行きましょうか」と言って、うすっぺらく見下ろされるだけ。高そうな黒のジャケットを翻してすたすたと歩いていく後ろ姿を、俺は駆け足で追った。うわあ、今絶対地雷踏んだ。つか、なんで同行者が俺なんだ? 明らかに人選ミスだろ。でもまあ、署で書類整理しているよりかはマシだ。新人の俺としては、初めての現場捜査になるのだ。気を引き締めていかないと、比喩抜きでメンタルをごりごりに削られる言葉があの端正な口から飛んでくる。

「(ぶっちゃけ、苦手なんだよな~……)」

 真面目そうだし、堅そうだし、融通効かなさそうだし。一緒に仕事するなら田端先輩とかがよかった。歳も近いし、とっつきやすいし。でもまあ、顔や態度には出さない。高校と大学において、体育会系ならではの理不尽な上下関係を強いられる環境で育ち、そこで鍛え上げられた空気を読むスキルは伊達じゃないのだ。
 一服すると言った上司といったん別れ、俺は案内所という名の公民館に走った。重たいドアを開けると、冷風の爆弾にぶわっと全身を襲われる。うおおぉおおお、すげえ涼しい。天国かここは。エアコンの音がガンガンと効いていて、噴き出していた汗がすっと冷める。今なら風鈴の音よりも好きになれるかもしれない。

「すんませーん」

 少しだけ埃臭い建物内。だだっ広い空間に向かって大声を出すも、奥からは誰も出てこない。まさか無人とか? いやでもエアコン代無駄すぎじゃね? これって靴脱いで上がっていいのか? 仕事じゃなかったら普通に上がるんだけどなー。無遠慮に行動してあとでどやされるのは勘弁――

「呼びましたー?」
「ぎゃあぁッ!?」

 こんなにも大声を上げたのはサークル仲間で肝試しをした時以来だと思う。背後から出てきたのは女性。俺の悲鳴を聞くやいなや、口を抑えてけらけらと笑っている。俺よりも歳上……か? 年齢が読めない笑顔に、まさか本物の幽霊じゃないだろうな、と疑った。だがしかし足はちゃんと付いている。

「すみません。ちょっとだけ外出てました。普段、この時間帯に人なんて来ないもので」

 絶対悪いと思ってなさそうににこにこと笑んでいるが、どこか取っつきやすさを感じた。ここの留守番をしているらしいその人は、「何か用事でした?」と俺に愛想よく尋ねた。

「俺、ここに来たばっかでこの辺よく分かってなくて。近くに民宿とかあれば教えてほしいんすけど……」

「民宿なら港付近に一軒ありますよー。道も分かりにくいので、もしよかったらタクシー一台呼びましょうか?」

 彼女の言葉に俺は是非と答えた。「ちょっと待っててくださいねー」と、奥に引っ込んでいった女性が戻ってくるまで、俺は無防備な姿でエアコンの恩恵に預かった。あー……ずっとここにいたい。タクシー呼ぶのとかゆっくりでいいんでマジで。
 と、思っていたが一分もしない間に戻ってきた。仕事早えな。聞けば、あと数分で到着するとのこと。移動手段も料金の優しい町内バスがあるので、タクシーは持て余されているらしい。ついでに、民宿近くにある美味い飯屋も教えてくれた。
 説明の終えた女性は、じいっと俺を見つめて、「スーツで観光……なわけないですよねー。都市圏からお仕事とかなにかで?」と聞いてきた。喋らなければ良い奴と評される俺だったので、どこまで話していいか分からず(いらないことまで喋って怒られるのは嫌だ)、「あー……まあ、そんな感じっすね」と返答を濁した。

「もしかしておひとりですか?」
「いや、もう一人上司がいるんすけど、今は外で待ってもらってます」
「外で? 暑くないですか? 中に入ってもらってもいいですよ?」
「あー……多分大丈夫っす。煙草吸いたいみたいなんで」
「なるほど~」

 女性はそれ以上問いつめたりしなかった。聞きたかった、というより、沈黙の間を埋めてくれたように感じた。

「またここの近くを通ったら、勝手に入って涼んでもらっていいですよ~。老若男女、今日も何人か大広間に集まって好きに過ごしてますし」
「マジすか? ありがとうございます。じゃあ、そん時はお邪魔しますね!」
「どうぞどうぞ。道中気をつけてー」

 ひら、と手を振られて、また、彼女は笑む。まるで、強制的に同じ空間から追い出されているような感じで、なんとなく違和感があった。これ、何回か味わったことがあるような。なんとなく、彼女からあのお堅い上司と同じ匂いがした。
 オアシスのような公民館を出ると、また灼熱地獄に逆戻り。ジャケットを脱いで、腕にかけている彼の姿が目に入る。やっぱさすがに暑いよな。木陰にいるっていっても暑いことには変わらないだろうに。警官らしくない警官の彼は、顔にこそ出ないものの、その心には常に薬物を撲滅するという信念を燃やしていると、先輩の誰かから聞いた。そうは、見えないけど。しかし、そんな彼こそが我らが要。うちの部署が誇る巡査部長なのだ。俺は大きく手を上げて、むせ返りそうな熱気をすうっと吸い込んだ。

「入間さーんっ!」







 滞在三日目。現地捜査は着々と進み、過去にこの地であった目撃情報から、次の取引場所を割り出していく。人が多く集まる行事を狙って、奴らはヤクを捌いている。近日だと、来週に控えられた納涼祭りが餌場と言える。その日のために署から何人か増援を呼んだし、町の協力も得ている。袋叩き以外の結末は銃兎の中には存在しなかった。
 上手く、こちらの網にかかるといいが。この町に来てからろくに休めていない銃兎は、煙草をふかそうとポケットに手を突っ込む。部下がこの町に二つしかないというコンビニまで走りに行かせている間のしばしの休息だ。
 フィルターを口を銜えたその時、小さな影がたたッ、と目の前を通り過ぎた。銃兎が視線を奪われたと同時に、その影は数メートル離れた先でぴたりと止まる。振り返ったそれは、「あっ」と小さく声を上げた。

「おまわりさん」
「ええ。こんにちは。また会いましたね」

 「こんにちは」丁寧に挨拶を返した子どもはたた、とこちらに駆け寄ってきた。同時に、銃兎は銜えていた煙草を箱に戻す。不思議そうに見つめ返す子どもの意識を逸らそうと、「ずいぶんと急いでいたようですが、今からどこに?」と穏やかに尋ねた。

「いまから、こーみんかんでヒップホップのべんきょう会やるんだ」
「ヒップホップの?」

 「うん」子どもはうれしそうに頷いた。

「ヒップホップも、今では学校でも習うくらいですからね。だれか詳しい人が来るんですか?」
「ううん。おれのかあさんがおしえてくれるから」

 かあさん? 銃兎は目を丸くした。かあさんというくらいなのだから女なのだろうが、こんな小さな町で暮らす人間がラップを講じるのは意外だった。どこか誇らしげに口角をゆるめる子どもは言葉を付け足す。

「むかし、しごとで少しやってたんだって。えらい人がやってほしいっておねがいしてた」
「なるほど。そうだったんですね」

 大方、中王区政府関係だった人間だろう。情報漏洩の危険があるため、一度住民登録をしたら中々あの地区からは抜け出せないと聞いた。しかしまあ、個人の事情は様々。今の仕事は別にあるし、それほど興味もない。あまり追及することではないと思い、銃兎はそれ以上その話題に突っ込まなかった。

「おまわりさんもラップする?」
「しますよ。仕事の一つですからね」

 田舎とはいえ、ヨコハマ・ディビジョンのことを知らないのだろうか。いくつもメディアに取り上げられているため、既知であるだろうと自負していたのだが。そういや最初会った時も無反応だったな、と記憶を掘り起こした後、子どもは羨望混じった声で「いいなあ……」と呟いた。

「きみは、将来ホッパーになりたいのですか?」
「ううん……。いまはかんがえ中。それより、おまわりさん、あつくない? こーみんかん、くる? すごく涼しいよ」
「いえ、人を待たせているので私はここで――」
「入間さーんッ!!」

 声がでかい。銃兎は疲れたように息をついて、遠くを見ようと目を細める。すると、ビニール袋を引っさげた部下がガサガサと音を立ててこちらに走ってきていた。見ているだけで暑苦しい彼は、銃兎と子どもを交互に見つめて、困惑しながらこう言った。

「えーっと……? 入間さんのお子さんっすか?」
「は?」

 素っ頓狂な声が出た。あまりにも突飛なことだったので、声の調子を整える時間もなかった。部下の体が強ばったのを察して、銃兎はこほん、と咳払いをする。今のはこいつが悪い。

「違いますよ。そもそも、なぜこんな港町に私の子どもがいるんです」
「えっ……。いやだってすげえ似てたんで、てっきりそうかと」

 こんな手を汚すばかりの警官と無垢な子供を一緒にするのは彼に失礼だろう。部下から昼ご飯をもらい、日陰のあるベンチに腰をかけようと公園の隅に向かう。
 そんな時、くい、と弱い力が下から加わる。ふと見下ろすと、少しばかりやわらかい雰囲気を纏った子どもが、銃兎のスーツの裾をきゅっと掴んでいた。

「おれとおまわりさん、にてるって」

 くふ、とむじゃきに笑ったこの顔を、銃兎は昔に何度も見たような気がした。自分と似ているかなんて分からない。ただ、細められた目が、過去の記憶の彼女と重なって、一瞬、銃兎は視覚以外の機能が停止したように感じた。

「ねえ、おれもここでべんとう、食べていい?」
「ええ。構いませんよ」
「君いくつ? つか、ここらへんの子? 今は夏休み中な感じ?」

 易々と子どもの懐に入っていく部下を、銃兎は少しだけ尊敬する。おかげで、彼が六歳であることが判明した。歳の割にはしっかりしてんな、と機械的な味がするおにぎりを一つ頬張った。

「……このひとも、おまわりさん?」
「ええ。一応。そうは見えないでしょうが」
「うん。みえない」
「二人とも中々ひどいっすよー」







 こんな小さな町のどこに隠れていたんだと問わざるを得ない。昼間は通行人も疎らだった大通りは、今では人の頭頂部に一面覆い尽くされており、もはや地面の色すら分からなくなっている。提灯の灯りなど一切関係なく、眼鏡の奥から見通す世界は、銃兎の今の心境に同調するように仄暗く映っていた。
 祭りの規模は町一番の行事と謳われるだけあって、どこもかしこも装飾は華やか。穏やかな港町とは思えないくらい活気も凄まじいものだった。祭りは北と南のエリアに分かれ、まるで市場のように出店が立ち並んでいる。そんな中、同僚の何人かには一般人に紛れて扮装してもらっているが、この人混みだ。売人が隠れようと思えば、いくらでも我々の目を欺ける場所はあるだろう。
 しかし、そうならないためにこの日のために包囲網はしっかりと敷いたし、町の同業にも協力を仰いでいる。どうにか今夜中に片付くといいが。

「入間さーんっ!」

 囃子太鼓に引けを取らない音量で自分を呼ぶ声。五日の間に、このやり取りに慣れてしまった自分が心底怖い。銃兎はやれやれ、と肩を下ろしつつ、「なんですか騒々しい」と声のする方へ振り向いた。
 八割方、任務のことではないことは察していたが、予想外も予想外。銃兎の目の前には部下である彼。そして、その隣にちょこんと佇んでいるのは顔馴染みの子ども。そして、その小さな手をぎゅっと握っているのは、子どもよりもまた一回り小さい女の子だった。妹だろうか、と思うも、いかんせん顔が似ていない。ああ、これは嫌な予感しかしないな。

「こんばんは。おまわりさん」
「……こんばんは」
「見ての通り迷子っす」

 どちらが、というのは愚問だ。大方、その女の子を少年が見つけ、親鳥からはぐれたひよこのように歩いていた二人を彼が保護したというところか。目の前の任務よりも警察の仕事の一環を無下にしない彼をどこか憎めないのは、やはり過去の青臭い自分と重ねているからなのだろうか。

「……分かりました。私が代わりに持ち場につきますから、あなたはその子を自治会のテントに連れて行ってやりなさい」
「了解っす!」

 幸い、女の子の手が少年から彼へ渡るも、べそをかくだけで彼女は嫌がったりはしなかった。大人しく彼に連れられた女の子の背中を見送り、その場に残されたのは銃兎と少年の二人だけ。ちら、と見上げる彼は、どこか自信なさげに目尻を落としていた。

「おれ、しごとのじゃましちゃったかな」
「いいえ。気にしないでください。これも仕事の内ですから。彼女を連れてきてくれてありがとうございます」

 人の往来に飲まれないよう、道の端に寄って膝を折ると、少年の笑んだ表情とぶつかった。

「今日はおかあさんと一緒ですか?」
「うん。“しごと”が終わるまでここでまってて、って」

 公園の時といい、町中とはいえ、こんな小さい子を外に放置するなど、なんて親だろう。銃兎は顔も名も知らない彼の母親に少し憤慨した。おそらく、今が任務中でなければ彼と共に母親を待って、彼女を窘めたいくらいには、彼へ向ける親愛は強くなっている。

「私はこれから行くところがあるのでこここを離れますが、君一人で平気ですか?」

 銃兎の問いに、少年はしっかりと頷いた。最初会った時と同じで、逞しく、素直で賢い子だ。銃兎は片方だけ手袋を脱いで、素手で小さな頭をくしゃっと撫でる。

「なるべく、屋台の近くにいるように。おかあさん、早く来るといいですね」
「……うん。ありがとうおまわりさん。しごと、がんばってね」

 少しだけ耳を赤くさせて、そっぽを向いた少年はもみじのような手を左右に振る。それを一瞥した銃兎は、人の波に乗って、南から北のエリアに向かって足を早めた。
 部下の持ち場……南エリアの端に向かっている最中のことだ。インカムから聞こえてきた無機質な音に、銃兎の神経がぴんッと張った。

《一八一六、ホシ現行犯逮捕。全員、北エリアの自治会テントで身柄拘束中。繰り返す――》

 ……は?
 雑音に邪魔されるも、その意味は十分なくらい飲み込める。全身の血が沸騰して、目も充血するくらい熱くなる。銃兎は人が開けた道に出ると、蒸し暑い空気を切りながら地面を蹴った。嵐の前の静けさもない。事態が収拾が着くのがあまりにも早すぎたことに戸惑いを隠せなかった。
 北エリアの自治会テントに到着すると、報告通りの人数の売人達、そして差し押さえたブツが同僚達に囲まれていた。テントの裏に何台かパトカーを停めて、目立たないように裏から作業を進めているからか、人だかりも自治会や町の関係者しかいなかった。
 呆気ない。あまりにも呆気ない。今までの地道な捜査はなんだったのかと思うくらいに、胸の中に穴がぽっかり開いたようだ。すると、腑に落ちない銃兎を察した古参の部下がそそ、と寄ってきて、自分の傍で耳打ちをした。

「実は、怪しい人がいるって言って、通報してくれた人がいたらしいんです」
「通報? 民間人ですか」
「ええ。聞いたところによると、二十代半ばの女性。さっきまでテントにいたみたいなんですが、私達が到着した時にはもういなかったんですよ。唯一、あいつが彼女と喋ったそうなんですが……」

 あいつ、と指したのは銃兎とともにこの町にやってきた部下。今は自治会長と話をしている。銃兎がとん、と彼の肩を叩くと、彼は最後に一言二言会長と話して会話を切り上げた。通報した人間がいたのなら、それはかなりの重要参考人だ。そもそも、怪しい人がいる、などという理由がチープすぎる。売人の関係者という可能性も無きにしも非ずなのだ。

「お疲れさまです入間さん。さっきぶりっすね!」
「お疲れさまです。通報したという方はどこに行ったんですか」
「あ~……。一応、しばらくはここにいるように頼んだんですけど、子どもと祭りに行くって言って聞いてくれなくて」
「はあ……。分かりました。彼女の連絡先は聞いたんですよね」
「もちろんっす!」

 渡された紙。そこに記された文字。あれだけふつふつと煮えた血が一気に冷めた。随分と昔に埋もれて見えなくなった記憶が焼け跡のようにじわじわと浮かび上がっていく。大きくも小さくもないサイズ、跳ねの少ない丸みを帯びた文字に、ひどく見覚えがあった。

「“亀崎さん”、俺が最初に公民館行った時に道教えてくれた人なんすよ~。逮捕するまで俺以上に手際が良くてびっくりしましたよ」

 目眩がした。冷汗がぶわりと噴き上がる。眼鏡を取って一度目を擦りたいくらいには、今俺はタイムスリップでもしたのではと疑った。それくらい、目の前の小さな紙に書かれた十一桁の数字が過去から飛んできた彼女の遺物のように思えて仕方がなかったのだ。







「おいしい?」
「うん」
「おかわりあるからゆっくり食べていいよ~」

 おれのめのまえにすわるかあさんは、にまにまと笑っている。スプーンですくってるのは、かあさんのつくったチャーハン。米のほかには、ねぎと、たまごと……それだけ。おみせにいったら、“ぐ”はたくさんはいってるけど、かあさんのチャーハンの方が、舌がいそがしくなくて、おれはすきだった。

「かあさん」
「んー?」
「きょうね、このあいだのおまわりさんとあったよ」
「おまわりさん? ……あぁ~、ハンカチ貸してくれたっていう?」
「うん」

 こーみんかんで、かあさんがヒップホップをおしえてくれたのもたのしかったけど、おまわりさんたちと、こーえんでおひるごはんをたべたじかんも、すごくたのしかった。
 おまわりさんがどこかに行こうとしたとき、またあえる? ときいてみた。たぶん、すこしだけ、こまらせちゃったのかもしれない。おまわりさんはぽかんとしたあと、すぐににこりと笑って、じぶんのいえにかえるときに、たちよるかもしれないと言った。あと、おまわりさんは、ヨコハマからきたとも言っていた。それをきいて、おれもヨコハマにいきたいな、と思った。
 もしかしたら、そとをあるいてたらまたあえるかもしれない。あしたからハンカチ、もってあるこうかな。おれは、かあさんがアイロンをかけてタンスの上においてくれたあおとくろのハンカチをじっとみた。

「おまわりさん、かっこよかった?」
「うん。すごく。しんちょうがね、高くてね。くろいふく、きてた」
「そっかあ」

 かあさんは、とてもとおいところにおれがいるみたいにみて、そう言った。かあさんとはちゃんと目があっているのに、まるでらおれのうしろにいるだれかにむかって、はなしているみたいだった。こういうことが、ふしぎだなとおもうくらい、さいきんよくある。

「かあさん」
「んー?」
「ことしはまつり、行ける?」

 まいとし、かあさんはえらい人たちのてつだいでいそがしい。だから、がっこうのともだちといっしょに、まつりにいく。でも、それはかあさんといっしょにいけないからだった。おれは、ほんとうは、かあさんといっしょにゲームしたり、あるきながらおいしいものたべたりしたい。
 しばらく、かあさんはううん、とかんがえて、「うん。行けるよ」とこたえてくれた。「ほんとっ?」おれはスプーンをかしゃんとおとをたてて、さらの上においた。すこし目をおおきくひらいたかあさんは、すぐにへにゃあ、と笑った。

「でも、すこしだけまっててもらっていい? おしごとおわったら遊ぼうね。ヨーヨー釣りとか」
「うん。ヨーヨーつりする。まってる」

 あと、いっしょにたくさんごはん食べようね。さらの上に何もなくなって、ごちそうさまでした、と手をあわせる。ちろり、とかあさんをみると、めをとじて、ふっとちからがぬけたみたいにすわっている。

「かあさん……?」

 いきだけで、かあさんをよぶ。もしかして、ねちゃったのかな。おれはそうっとさらをキッチンにはこんで、かわりにブランケットをずるずると引きずってくる。それから、かあさんのかたに、そっとかける。エアコンのきいたへやでねてるとかぜひくよ。そういわれて、まえに、かあさんにこうされたのを、おれはおぼえてる。かあさんがかぜをひいたら、こまるし、おれはかなしい。

「おやすみ。かあさん」

 ころん。かあさんのとなりでよこになって、おれも、めをとじた。なつなのにあったかいなんて、なんだかおかしい。でも、いいや。今かく汗も、きもちわるくない。
 まつり、たのしみだな。はやく、こないかな。きれいなヨーヨーつって、かあさんにあげるんだ。







 まつりの日。しごとがおわったかあさんは、なんだかげんきがなかった。

「かあさん。スマホなってるよ」
「んー?」

 おれの耳のちかくでヴーッ、となるスマホ。かあさんはスマホをとって、がめんをじっとみたけど、すぐにポケットのなかにしまってしまった。

「でなくていいの?」
「いいのいいのー。あっ、りんご飴あるよ。食べる?」

 たべる、けど。かあさんのわらったかおが、いまは何かをかくしているようで、おれはへんじをするのに、すこしじかんがかかった。しごと、やってもいいよ。そういっても、おわったからいいんだよ、とかあさんはいう。おれがわがままいったから、かあさんのこと、こまらせちゃったかな。そうかんがえて、じめんとにらめっこする。そうしたら、かあさんはぽんぽん、とおれのあたまの上に手をおいた。まるで、そんなことないよ、といわれてるみたいだった。
 そういえば、ヨーヨーつれるところ、どこかな。りんごあめをかった後も、スマホはかあさんのポケットのなかでぶるぶるふるえている。だんだんと、たいこの音よりもそれが気になってしまって、「おれ、でようか」とぽつんといった。でも、かあさんはいいの、というように、また笑うだけだった。
 かあさんは、うそをつくとき、よくわらう。

「ご飯ものも欲しいねえ。たこ焼き食べる?」
「たべる」
「分かったよ~。買ってくるからちょっと待っててね」

 音といっしょに、かあさんはたくさんの人にまじってわからなくなった。おれはあかくてテカテカしたりんごあめをかじりながら、ベンチにすわってかあさんをまつ。はなび、上がるのいつだっけ。ポシェットのなかにいれたチラシをだそうとすると、かっこいい布がおれのつめにひっかかった。

「あ」

 おまわりさんの、ハンカチ。まつりであえるかわからなかったけど、家からもってきた。さっきはせっかくあえたのに、わたせなかった。でも、あの時はいそがしそうだったから、わたさなくてよかったのかもしれない。
 まだ……いるかな。おれは、かあさんがいなくなった方をみる。ひとのかたまりから、かあさんがでてきそうにはない。まよって、まよって、じっとまよって、おれは、ベンチからとびおりた。かあさんにまっててと言われて、とびだしたのは、これがはじめてかもしれない。ついでに、ヨーヨーをつれるばしょを見つけて、かあさんをあんないしよう。つかれたかあさんが、あんまりあるかなくていいように。
 ひとのあいだに体をぎゅうぎゅうといれながら、おれははしる。きっと、さっきの女の子といっしょに、おまわりさんっぽくないおにいさんが“じちかい”のテントにいるから、きっと、そこにいけばあえるかもしれない。
 かじってなめたりんごあめが、からからにかわいていく。くびも、せなかも、あせでびっちょりぬれている。きもちわるいって思うより、おまわりさんに笑われてしまうかもしれないとおもうと、すこしだけはずかしいとおもった。
 テントは、もうめのまえだった。今日だけくるまが通らないどうろにじゃまされるように、おれはいきをととのえて、どうろのはしっこに立った。テントのまわりには、まっくろなスーツをきた人がなん人もいて、おどろいた。でも、ひとりだけとてもせのたかい、めがねをかけたあの人がいた。

「おまわりさんっ!」

 からからになった喉をぎゅっとしぼって、さけぶ。なん人もこっちをちらっと見たけど、からだの向きをかえてこっちを見てくれたのは、あのおまわりさんだけだった。むこう側にいるおまわりさんはおれに気づいて目をおおきくひらいている。おれはたまらなくなって、むこうがわにはしった。

「来るなッ!!」

 からだ中が、びりびりとする。左耳からはいってきたのは、くるまの、おおきなエンジンの音。みえたのは、目をとじてしまうくらいまぶしくひかる、ふたつのめ。おれのことがみえていないみたいに、それはちかづいてくる。足のうらから頭のうえにむかって、でんきみたいなものがびりびりとのぼってくる。いやだな、このかんじ。
 まほうをかけられて、石にされたようだった。おれの体はびくりともうごかなくなる。まえから、おまわりさんがはしってくる。そのまえに、うしろから、おれのなまえをよぶ、かあさんの――

「――ッ!!」

 ……なにをきいて、なにをみて、なにをおもったのか、わからない。まるで、あのじかんだけハサミできりとられて、だれかのものにされてしまったみたいだった。
 においは、わかる。かいだことのない、なんだか、いやな気分になるかんじだ。はなのおくをつん、と針でさされているような。
 からだにさわられていることも、わかる。せなかがおされたみたいにかんじて、そのあとは、かあさんが、おれをつつむみたいにぎゅっとしてくれている。でも、なんだか、ちからは弱い。あれ、どうして、おれもかあさんも、じめんのうえに、ねてるんだろう。さっきまで、ちゃんと立ってたのに。

「かぁ、さん……?」

 ねえ、かあさん、おもたいよ。じぶんでおきて。おれ、つぶれちゃうよ。
 くさい。おもたい。あと、まわりの音が、すごくうるさい。なにをいってるのかぜんぜんわからない。
 めだまだけ、きょろっとうごかす。みえるのは、くろいそら。それから、あのおまわりさんが、みたこともないくらい汗をかいて、こっちをじっとみつめていた。
 やっぱり、おまわりさん、あつかったんだね。そういおうとして口をあけるまえに、おまわりさんの口がちいさくひらく。そこからもれた音は、なぜか、かあさんの下のなまえだった。







 長い時間、眠っているようだった。
 今日までの記憶が断片的だった。行くあてもなく、電車に揺られていたのがつい昨日か一昨日のように思える。小さなワンルームを借りて、小さな町で仕事を探して、一年と経たず、膨らんだお腹はひっこんで、代わりに、わたしの腕の中にはひとりの赤子がいた。
 ああ……あれは、一番覚えている。全身の筋という筋が千切れそうになるくらい力んで、股が裂けてしまうんじゃないかと、それこそ、死を覚悟した。でも、女の体はよくできているもので、あんなに痛かったのに、それが自然の摂理と言わんばかりに、間もなくして、わたしの足の下からは産声が聞こえた。こんなことが世界中で一日に三千回近く行われているのだから、途方もないと思った。
 単語の意味以上の“お母さん”というものがどういう存在か分からないまま、わたしは母親になってしまった。病院を出て、腕の中に眠るのはまだしわくちゃの、世界のせの字も知らない、無垢ないのち。二人きりの、世界。わたしは、続きのレールを頭の中で描き始めた。
 このような町では電子的な情報網の代わりに、人同士とのコミュニティが必要不可欠。近年では、中王区から壁の外へ逃げてきた女性が身を隠すために、小さな町村に移住してくるのも珍しくないと聞く。どこから来たかのか分からない、小さな子どもを抱えた一人の女の子。明らかに訳ありと思えるわたしを、この町は社会的に受け入れた。
 後ろから刺されても、文句は言えない身分だ。しかし、産まれた子どもに、罪はない。せめて、彼が自分のことを決められるようになるまで。これからは、この綿毛のような命に捧げると決めた。わたしのための人生は、ヨコハマを出たあの日で、とっくに終わっているのだから。



 だから……二度と、目覚めたくなかった。
 それは贅沢だと言うのなら、わざわざこんなタイミングで目を覚まさなくてもよかったんじゃないかと抗議したい。今自分がいる場所が病院だと分かったのは、いろんな食べ物の匂いが混ざった独特なにおいから。薄ら眼に映ったのは、何年も前に、署で会ったきりの銃兎さん。タイムスリップでもしてきたのか、と言うくらい、外見はなにも変わっていない。……あ、でも、すこし顔つきがシャープになったような。ちょっと痩せましたか。というか、隈ちょっと濃くないですか。ご飯、ちゃんと食べてます?
 そう、思うだけ。どんな立場で、どんな心境で、どんなことを話せばいいのか、わからない。痛む全身に、力が入る。そもそも、まばたきの回数と呼吸数を調節するのに神経を研ぎ澄ませているから、会話の内容なんて、考える余裕はない。無言の防衛線をハッテイタノニモ関わらず、銃兎さんは眼鏡の奥で目を細めながら、難なくその薄い唇を小さく開いた。

「……全治二ヶ月」
「こどもが……っ!?」
「お前だ馬鹿野郎」

 昔にも言われたことのなかった暴言が炸裂する。まるで、こちらが意図的に口を閉ざそうとしていたのを読まれているようだった。やってしまった、という顔をしていたのか、銃兎さんはため息をついて、ベッドサイドに置かれている椅子に腰掛けた。

「……あの子は、あなたが庇ったおかげで無傷です。今はそこのソファーに丸まって寝ていますよ」

 首を持ち上げたかったけど、無理だった。でも、銃兎さんがそう言うならそうなんだろうと、あっさり納得出来てしまう。なあんだ……よかった。ゆるゆると息を吐きながら、体を縛っていた緊張の糸をするすると解いた。

「……わたし、しってましたよ。銃兎さんがこの町に、いること」

 わたしは潔く観念した。意地を張る元気も、この数年で消耗しきってしまったみたいだった。
 銃兎さんは別段、驚いていなかった。夏休み期間中だけ公民館を開放する関係で、わたしは少しだけ留守番を手伝っていた。この町の最高気温を記録したあの日……汗だくで、真っ黒なスーツを着ながら、大学生みたく緩い挨拶をした彼は、わたしの中でかなり印象的に映った。

「たぶん……新顔君ですね。胸元にヨコハマ署のバッヂもありましたし。公民館に来て、民宿の場所を尋ねてきました。おまけに、公民館から出る時にすっごく大きな声で、“入間さーんっ!”って呼ぶんですもん。あんなにも鳥肌が立ったの、鉄パイプで犯人殴った以来です。この町に入間って苗字の人、みたことないですし」

 ああ……ついにきちゃったか。なんで、というより、やっぱり、という思いが強かった。遅かったような、早かったような。でも、今この町で起きていることを考えたら、別に不思議でもないや、とも思えて、世界ってよくできてるな、と感心してしまった。

「……ヤクがこの町に流れていたこと、知ってたんですか」
「はい。大体、一ヶ月前くらいですかねえ……。この町に被害はないみたいですけど、港から都市圏に向かって四方八方に流出していたかと」
「では、ヨコハマ署に情報提供したのもあなたですか」
「それは地域安全課の人ですよ。わたしは少しだけ口添えしただけ」

 そこに、正義などなかった。ただただ、銃兎さんから逃げた罪悪感を、少しでも軽くしたかった。身も心も、すでに一般市民になりきってしまったわたしは、心を騙すのも現実を割り切るのも、下手になってしまったようだった。

「……まさか、ずっとヨコハマ市内にいたとはな」

 つかれたように、あきれたように。銃兎さんは独り言のつもりなんだろうけど、その言葉はわたしの良心をぐりぐりと抉った。公私が混同していることに、気づいているのか、いないのか。わたしは、その言葉に指で少しだけ掠るように返答した。

「痕跡がない方が、逆に市外に行ったと思うかなあと」
「小賢しいことしやがって」
「裏の裏を読んだって、言ってくれませんかねえ……」

 わたしは半笑いながら、「それで……これからどうしますか。わたし、このまましょっぴかれるんですか」流れのままに、尋ねた。精神的にはもう崖っぷち。社会的にも行き場はない。子どもにはなんて説明しようかなとか、答えを聞く前から、頭を巡るのはそんなことばかりだった。
 そんな時、銃兎さんは一枚の書類をわたしに見せた。なんだか、これに似たようなこと、前にもあったような気がするような。寝起き眼にはまぶしい、真っ白な紙。そこには、初見では理解し難い数値がずらりと並んでいた。

「あなたが眠っている間に、子どものDNA鑑定を済ませました」
「……え?」
「ああ、彼にはまだ話していませんよ。彼の中で私はまだ“おまわりさん”のままです」
「でぃー、えぬ、ぇー……?」

 アルファベットを半覚えした小学生のように、口から漏れた声は拙かった。まって。ちょっとまってほしい。それじゃあ、つまり――しょっぴかれるよりも絶望的な状況に、わたしは指の腹で摘んだ紙の端を強く押した。「お前なあ、」

「俺が何年サツやってると思ってんだ? お前がいなくなってからあらゆる理由を探した。こういう可能性も、考えてなかったわけじゃない」

 手で首の後ろを抑えながら、銃兎さんは子どもの悪戯に呆れたように言う。「まあ、他の男とガキ作って逃亡してたなら無理矢理にでもヨコハマに引きずってきたけどな」ぽろりと零した言葉がひどく殺気立っていて、初めて彼に人間的な恐怖を抱いた。
 しばらく彼の傍から離れていたからか、母親になったからか分からないが、なんだか、毒気が抜けてしまった気がする。というか銃兎さん、全部知った上で、そのテンションなんですか。全部理解した上で、その態度なんですか。そんなの、割に合わなさすぎませんか。今のわたしには発言権すらない気がして、黙って彼を見ることしかできなかった。

「……無断で姿くらませたことはたしかに怒ってましたよ。それこそ、気が狂うくらいに。ですが、理由が理由です。状況に甘んじて事に及んでいたことは私の責任。あの子がいる以上、私があなたを怒る資格はありませんし、むしろ謝罪する側だ」

 銃兎さんは、もうとっくに仕事を終えた気分でいるのだろう。きっと、しょっぴいたりも、してくれない。まるで、家族を亡くした被疑者を見るような憐憫溢れた眼差しに、体がやめてと叫びたがっていた。

「あなたのことです。大方、騒ぎを起こさず、すべて丸く収めようとしたんでしょう。立場や世間体……私のことを含め、色々と頭を回して、あらゆる可能性を視野に入れて。ほんとうに、そんな華奢な体でよくも……」

 ――長い間、ひとりで背負わせて、悪かった。
 前座の台詞はその言葉を言うためのリハーサルのようだった。ふっと、魂が抜けたように、胸が軽くなる。心臓が大きく跳ねて、何年か前に作り上げた強固な壁を粉々に崩した。代わりに、今までせき止めていた感情が欠落したダムのように溢れて、止まらない、とまらない。喉奥から込み上げてきたものに口角が震えて、わたしは慌てて口元を抑えた。なんで、そんなこと、夢にもみなかった現実を、この人は……いとも簡単に――

「かあさん……?」

 不意に聞こえた、愛らしい我が子の声。ふらふらと小さな体を持ち上げて、よたよたとベッドサイドまで歩いてくる。一度、視界から外れて、ぽすん、と何かがベッドにぶつかる振動を感じた。すると、子どもはひょいと寝起きの顔を覗かせて、彼に似た目を擦りながら、その瞳の奥は不安そうに揺らいでいた。

「かあさん、ないてる……? まだ、どっかいたい……?」

 わたしの顔をじろじろと見る。なにか、言わなきゃ。はくはくと手の奥で無意味に口を動かしていると、銃兎さんがその場にしゃがんで子どもの視線とぴたりと合わせた。

「きっと、あなたを見て安心したんでしょう」
「ほんとう……?」
「ええ。本当ですよ」

 夢にも見なかった二人が話している姿を見て、さらに喉奥が締めつけられる。わたしの呼吸がままならない中で、銃兎さんは寝癖のついた子どもの髪を整えるように、指で梳きながら彼の頭を撫でていた。

「それでは、私はこれで失礼します。“おかあさん”のこと、よろしくお願いしますね」
「うん。ありがとう、おまわりさん」

 え……ちょっと、待ってくださいよ。わたし、まだ言いたいこと言ってないんですよ。
 外向きの笑顔を浮かべた銃兎さんは、一度もこちらを振り返らずに、病室を後にしてしまった。名残惜しいとも思えないくらいに、呆気ない最後。得体の知れない感極まりからの、虚無。落差が激しすぎて体調不良になりそうだ。どうしようもない熱量の当てどころを見失って、わたしはただただ口元を覆うことしかできなかった。

「おまわりさんね、ヨコハマから、しごとで来たんだって。でも、かあさんがねてるあいだ、ずっとここにいてくれたんだよ」

 ふわふわと笑む我が子の言葉に、「そっ、かぁ……」と中身のない声で呟く。売人を捕まえて、ヨコハマ署はしっちゃかめっちゃかなはずなのに、いつ目覚めるか分からない女のために、ずっと。この六年で溜め込んでいたものが一気に解放された感覚が拭えない。涙を流すタイミングも、完全に逃してしまった。
 でも、まあ……いっか。泣いていたら、この子が困ってしまうだろうから。いまは、この笑顔を受け止めるのが、母親の仕事だ。

「あっ」
「どうしたの?」
「ハンカチ、かえすのわすれた……」

 ばつ悪そうに、いそいそとポケットからハンカチを出す。わたしの知らないところで、彼らはずいぶんと仲良くなったようだ。銃兎さんにしては、距離の近い対応だなと思った。それとも、本能的にこの子になにか感じるものがあったのか。どちらにしろ、なんだかおかしくなって、いつの間にか、口元の震えは止まり、退けた手で、わたしは銃兎さんが整えた子どもの頭をさら、と撫でた。

「……おかあさんが病院から出たら、ヨコハマまであいに行こっか」

 驚いて、目を丸くする。そして、ぱあっと咲いた笑顔を見て、わたしも少し、わらった。銃兎さんにも、この子にも、今までのことをちゃんと話せるようにしておかないと。久々に頭の中で剽軽な台詞を書き出しながら、わたしは枕元にあるナースコールを押した。