点と線、継ぎはぎで繋いだ未来
殺される――冷えた頭で左馬刻は確信した。
こういう時、嫌な予感ほど当たるものだ。鉄の味しかしない唾液を舌で転がしながら、当時中学生だった彼はそんな達観的なことを思っていた。家にいればただのサンドバッグ。なら帰らなければいいだけの話だが、それは自分一人だけだったらの話。小さな合歓にまで、こんな真冬の外で朝が来るのを待たせるわけにはいかなかった。
「……織原」
目の前に広がる何の役にも立たない数式問題を解く暇があったら、家に帰ってからどうやって父親の暴力から免れるかを必死で考える。意を決して、左馬刻はくるりと後ろを振り向いた。今はテスト期間中で、出席番号の席順に戻っていた。
後ろに座っている女子生徒に、自分から話しかけるのは久しぶりだった。なんなら、左馬刻が椅子を引いた時に彼女の机にゴツンと当たり、「わりぃ」「うん」というやり取りをしただけの仲にすぎない。数学で力尽きたらしい彼女は、頭の上から魂が抜けるように突っ伏していたが、左馬刻の声を聞くとその顔をゆっくりと上げた。
「お前ん家、施設なんだよな」
たのみがある
そう言うと、眠りまなこのはぼーっと自分を映したかと思えば、「いいよ……」と言って、再び机の上に伏してしまった。まだなんも話してねーぞ。左馬刻は心の中で突っ込んだが、彼女が次に顔を上げたのは次のテストが始まる号令の時だった。
遠い遠い、昔の話だ。妹を施設に預ける必要もなければ、自分らを脅かすものはない。むしろは立場逆転した。左馬刻は足元に転がる男達を一蹴してから、ゴミ捨て場の裏をちらりと覗く。
ぱち、と合った目。彼女の目尻にはか弱い涙すら浮かんでいなかった。
「もういいぞ」
膝を抱えてしゃがんでいた彼女は、左馬刻を一瞥したかと思えば、よいしょ、と立ち上がる。地面でくたばっている男達を見て「おぉ……」と小さく声を上げた。どうやら一部始終を聞いていたらしい彼女に、左馬刻は舌を打った。
「耳、塞いでろっつったろ」
「その方が怖かったから」
「ありがとう」と礼を言った昔の同級生。は倒れている彼らをじっと見つめ、何も言わずに背を向けた。
意味も、目的もない。左馬刻はの隣を歩き、もまた左馬刻の隣を歩いている。成り行きという言葉が死ぬほど似合う時間だった。裏社会で生きる男と一般人の女とのツーショットは傍から見ればアンバランスに見えるだろう。左馬刻も胸の中がひどくざわついて、なんだか落ち着かなかった。
「なんであんな掃き溜めにいたんだよ」
「通ったことない道、歩いてみたくて」
「真昼だからって危機感なさすぎんだろ」
「うん」
路地裏で男達によってたかられていた女が織原とすぐに分かったのは幸いだった。自分の髪が昔と変わらず目立つ色をしていて、彼女が「さまときくん?」と言わなければ、左馬刻も思い出すのにもう少し時間がかかっただろう。自分をそういうふうに呼ぶ女など、そういない。
自分にとって苦い思い出しかない学生時代……他の女子とつるむことなく、なぜか一人でぽつんと席に座っていた。たしか、頭は良かったはずだ。それだけの印象しかない。なにせ、その頃の左馬刻は自分と合歓のことしか頭になかった。
しかし、色褪せたセーラー服を着て血の気のない顔色をしていた彼女は、この数年でたしかに変わっていた。
「お前、今は都内にいるんじゃなかったのかよ」
「うん。今日は両親のお墓参りで、出てきただけ」
は素っ気なく答えた。大通りに出て、行き先も何も分からないまま、二人で雑踏の中をゆっくり進んでいく。
が零した声に、左馬刻は返事をしなかった。ふと、の左薬指に嵌っている光るそれを目にして、「籍、入れたのか」と問えば、彼女は頷いた。
「きれいでしょう」
見せびらかすように指を前に出して、彼女は笑う。そういう顔は、初めて見たかもしれない。施設で年下の子供に絡まれていた時も、合歓と話している時も、はあまり表情を変えなかった。
気持ち悪い女だ、と思ったのは一時期の話。皆と水遊びをしようと合歓の誘いをやんわり断った時に、容赦なしに自分に水鉄砲を向けて発射したを見て初めて、案外人間らしい女なのだと思った。そして二人で馬鹿みたいに水浸しになった。
笑うときは笑うんだな、と思う。こうやって、周りは大人になっていくんだな、とも。自分の中にある記憶が消えて、新しいものに塗り替えられていく。きっと今、彼女は幸せなんだろう。現に、今のは自分の隣できちんと生きているという実感がある。
「もう織原じゃないけど、左馬刻君はそのままでいいよ」
「んだそれ」
「夫の苗字、前よりも長いの」
「それで」
「面倒かなって」
「だったら下の名前で呼ぶっつの」
すると、は大袈裟なくらい目を大きく見開いた。
「知ってたんだ」
「なにがだよ」
「私の名前」
「ナメてんのか」
「合歓ちゃんのことで、いっぱいいっぱいに見えたから」
否定はできなかった。あまり学校には来られなかったし、同級生とのつるみなど、以外は皆無だ。
しかし、違う。は、自分達に逃げ場を与えてくれた。余計なことをする大人達の目を盗んで施設に出入りさせてくれたし、母親が死んだ時も一緒に合歓を慰めてくれた。学校で話すようになってから、宿題や連絡事項のプリントを持ってきてくれたりもした。
なんだ――案外、一緒にいた時間が多かったのかもしれない。
「……恩人の名前くらい、覚えてるわ」
思いのほか、その言葉は口によく馴染んだ。
このまま一緒にいても変な気が湧いてきそうだったので、左馬刻は衝動的に財布から名刺を一枚出した。それを受け取ったはじっと見て、「火貂組?」とだけ発音する。
「昔の借りだ。男に泣かされたら一発くらい殴ってやるよ」
「高そうな名刺だね」
「人の話聞けやオイ」
「うん。聞いてる」と、。「それに、」
「泣かせることはあっても、泣くことはないから、大丈夫」
得意げに、また笑う。意外にも尻に敷いているというわけか。はっ、と左馬刻が乾いた笑みを零すと、もバッグから何か取り出した。
「……んだこれ」
「のど飴。ラップする時によかったら」
「もうここに住んでねえのにいいのかよ。ヨコハマ代表にこんな賄賂渡して」
と言いつつ、もうすでに左馬刻はその小さな袋を指で取っている。はうん、と頷いて、指輪をさすりながらこう言った。
「大切な人も、思い出も。ここにたくさんあるから」
媚を売るような女でもなければ、恩だの義理だのを気にするような人間でもない。やりたいからしているだけだと、その目が言っている。慣習にも人の群れにも囚われない。いつまでも純粋無垢で、そのまっしろなキャンバスを持っている彼女が、昔も今も少し眩しく見えた。
「でも、応援するのはシンジュクになっちゃうから、ごめんね」
「ハッ。んなもん、俺様の実力でひっくり返してやんよ」
うん、とはまた頷く。こういうところはまだ幼い。同じ親無しでも、自分と彼女は見ている世界が根本から違う。だからきっと……心のどこかで距離を置いていたのかもしれない。
「またね。左馬刻君」
いつの間にか駅前に着いていた。は手を振り、再会できるような言葉を当たり前のように残して、人混みの中に消えていった。
見えなくなった背中。左馬刻はポケットの中に飴のゴミを無造作に突っ込んだ。舌の上で飴を転がすと、清涼感のある柑橘系の風味が口全体に広がる。喉の奥に冷たい風がすうっと通り、後味もすっきりだ。売ってる場所聞いときゃよかった、と思うくらいには。
じくり、と滲んだ虚無に左馬刻は自嘲する。もう、すべてが昔の話だ。一瞬でも自分をモニター越しに映してくれたら、それでいい。今更、この手を伸ばそうと思わないし、自分のものになる彼女もあまり想像できない。そして、他の男のものになったからといって、今の彼女との関係は壊れない。ヤクザと知ってもなお驚かなかったがその証拠だ。それでいい。それがいい。良き友人である左馬刻はお幸せに、と空に向かって煙草を吹かすだけだ。
