君と歩くと決めたから
俺はに何もしてあげられていない。
そんなことは今に始まったことではないのだが、思いやりとか愛情とか……そういう目に見えない抽象的なものではなくて、今回俺が指しているものは手で触れることができて、きちんと実体のあるものだ。
単刀直入から言うと、俺はに贈り物をあげたことがあまりない。の誕生日も結婚してから知ったくらいだし(しかも気づいたのが誕生日当日から三日後とかだった)、出張先でもその地域の名物を買ってくるといつもに宣言するのに、忙しすぎて売店に行く余裕もなく、結局約束を破ってばかりいる。唯一俺がに渡したのは、婚姻届と時々頼まれて買ってくる日用品……あれ、本当にまずくないか俺。男として――いや、どちらかというと夫として、洒落たアクセサリーの一つも渡してないってそれはどうなんだ。
そう……そこで俺は思い立ったのだ。そうだ、に結婚指輪を渡そうと。
そうだよ笑えよ。この低収入リーマンの俺は、愛して止まない妻に指輪の一つも買ってやっていないんだ。金がないのかと突っ込みたくなるだろう。しかし驚くことなかれ。それはちゃんとある。こういう日が来るのではないかと思って、俺は前々からこつこつとへのプレゼント資金を貯めていたのである。との旅行のためと積んでいたお金だが、指輪でも別にいいんじゃないか。ちなみに貯金額は減給される前の給料の約三ヶ月分。ちょうどいい。相場はまちまちだが、俺はこの国のしきたりに忠実に従うことにした。
唯一の友人である一二三に、に結婚指輪を買ってやりたいんだけど、とLINEで相談したら、「は?」の二文字だけ吹き出しの中に現れた。絵文字も顔文字もないそれはさすがに俺の心臓も寒気を覚えた。一二三の言いたいことは分かる。まだ買ってなかったの? まったくその通りなのでなにも言い返せない。しかし、そのメッセージの後におすすめの指輪のブランドをURL付きで送ってくれたので、やはり持つべき者は一二三である。
とりあえず、指輪を買おうという決断からの行動は急行列車並に早かった。まずは検索エンジンで“結婚指輪”、“渡し方”、“タイミング”のワードでかけると、思っていた以上に様々な記事出てきた。みんな悩んでることは同じなんだな、と思いつつ、俺はタップとスクロールを繰り返して、その記事をさらさらと流し読む。
サプライズで渡す……のは、俺が失敗しそうだ。ふとした時にさりげなく……? ふとした時っていつだ。アバウト過ぎないか。寝ている時にこっそりと……って、朝は精神統一に忙しくてそんな余裕は俺にはない。
もう少しハードルの低い渡し方はないものか。指輪一つ渡すだけでもこんなにも難しいなんて。もしや俺はプレゼントを渡すこと自体向いていない人間なのでは、と思ったところで、俺は新たな問題にぶち当たった。
「の指のサイズっていくつだ……?」
小さい手だと思う。全体的に小柄だが、特に手と足のサイズは小さい方だと思う。靴を選ぶ時もサイズがないと悩んでいる姿をよく見かけるくらいには。
指のサイズが目視で分かるほど、俺の目は肥えていない。“結婚指輪”、“サイズ”、“わからない”で検索しても、渡し方を検索した時と同じくらいまあまあの量のサイトが出てくる。恋人が持っている指輪のサイズを参考にするとか、ストレートに聞くとか、そもそも買わなくていいとか、それよりも他のプレゼントの方が喜ばれるよ……というか、だんだん本題からズレてるじゃないか。こっちは真剣なんだぞこのやろう。まったく参考にならない記事の数々に、俺もだんだんと苛々してきた。
まあでも、一番有力なのは他の指輪のサイズを参考にするということだが、いくら探してもそんなものは見当たらなかった。冷静に考えたら、装飾品なんてネックレスくらいしか付けないもんな、は。イヤリングも穴を開けるの怖いし、ノンホールだとすぐ落ちるんです、とかなんとかで。
万事休す。俺はこういう時でも無力だ。ネットで取り寄せたブティックのパンフレットレットを捲りながら(店頭に行って貰ってくる勇気も度胸も俺にはなかった)、どれも同じように見えるデザインの指輪を見ながら、どう渡そうか、どんなものがに似合うかなど、悶々と一人の世界に入り浸ってイメトレをしていた。
「……独歩くん?」
「わあぁッ!?」
背後からの声。俺は慌ててパンフレットレットを背中に隠して、顔を上げる。そこには、全身からほかほかと湯気を上げながら、髪をタオルドライしているがいた。はっとして時計を見ると、が脱衣所に行くのを見送ってからもう一時間近く経っている。会社では発揮できない凄まじい集中力でパンフレットを読んでいたようだった。
は、驚いている俺を不思議そうな顔で見ながらも、「お風呂、上がりました」とだけ言った。よかった、パンフレットはギリギリ見られていない。
俺は隠したパンフレットを太股の下にそうっと敷く。すると、ふう、と俺の座るソファーにゆっくりと腰掛けた。最近買ったばかりのソファーだが、これがまたずいぶんと座り心地がいい。の表情もリラックスそのもの。ずいぶんと極楽心地のようだ。買ってよかった。一ヶ月間三時間残業してでも、俺はのこういう笑顔が千回は見たい。
髪を手ぐしで解いているを、俺はちらりと盗み見る。やっぱり、の手は小さい。手のひら同士をくっつけると、俺の第二関節まで余裕で覆えるんじゃないかと思う。小指とかほんと小人みたいで食えそ――いや待て今の嘘さすがに危ない。カニバリズムなどという特殊性癖は俺にはない。
「独歩くーん」
「ぅえッ……!?」
目の前でおーいと言わんばかりに、が俺の顔をずいっと覗き込んできて、思わず変な声が出た。さっきから挙動不審すぎる俺に、さすがにも何かあるのかという目で見つめている。
「眠たいのはとってもいいことですが、『おニューのソファーで寝ちゃダメだぜどぽちん』とひふみさんから伝言を預かってます」
「え? あ、ああ、うん、眠くはないからそれはいいんだけど……」
良い具合に勘違いしてくれてほっとしたが、いくら一二三とLINEを交換しているとはいえ、ソファー買ったことまで話さなくてもいいじゃないかと思う。
というか、にどぽちんって呼ばれるのってなんかこう……心臓が痛すぎて目眩がする。俺は自分の妻がいつも以上に尊く見えて目頭をぐっと指で抑えた。
「では、考え事ですか」
「まあ……うん。そう、かな」
「……お仕事ですか」
そう言ったの声は、若干拗ねたようなものだった。そういえば、前の休日でもずっと会社のことうだうだと考えていたら、いきなり腕をぎゅうっと抱きしめられて、「休みの日まで、会社に独歩くんはあげられません」と少し口をとがらせたに言われた。「うん、おれ、のことだけかんがえる」と言った俺の表情は、きっと悦に浸っていただろう。同時に幼児退行もしていた気がする。ここ最近、の声は先生並の洗脳力があるんじゃないかと思ってならない。俺限定で。
「そ、その……実は、のことなんだ」
「私のこと」
俺は強く頷く。「ちょっと、に聞きたいことがあって」と言うと、はなんでも聞いて、と言わんばかりに体の正面を俺の方に向けた。これ以上にないチャンス到来。そうだ、言うのだ。こんなときくらい男を見せてみせろ観音坂独歩……!!
「けッ……!」
「け?」
「けッ、こ……っ、けこッ、けっこ……ッ!!」
「ニワトリ……?」
「まあまあ落ち着いて」と手でどうどう、という仕草を見せる。さっきの決意はどこへやら。声も裏返ってしまったし、俺は情けなさすぎて死にそうだ。
「私はどこにもいかないので。話せると思った時にゆっくりどうぞ」
ああ、今日も今日とてが女神。こんなにも良い子がなんで俺の妻なんだろう。何万回と思ったことを懲りずに頭の上に浮かべた挙句、涙を流してまた呆気なく一日が終わりそうだ。
だめだ、今日ばかりはそんなことあってはならない。の気遣いに感謝しつつ、ごくりと生唾を呑んだ俺は再び口を開いた。
「は……サプライズ、好きか……?」
そうだ、まずは外堀から固めていこう。いきなり結婚指輪の話に持っていくのはダサすぎる。ハードルも高い。指輪のサイズは後で変更できるって言うし、まずは渡し方について聴取することにした。いいぞ、仕事で酷使しすぎた頭はしっかり働いている。
サプライズ、と聞いてはふむ、と下に視線を落とした。
「……驚かせるのは好きですが、驚かされるのは少し苦手です」
「えっ」
「いい感じのリアクションが取れないので、相手をよくがっかりさせてしまいます」
「あ、ああ……なるほど……」
「すごく驚いてるし、嬉しいんだけどね」とは言う。たしかに、一二三(スーツ着用)と一緒に俺の誕生日パーティーなるものをうちで開催した時も、馬鹿みたいに大きなクラッカーを鳴らしていたし(一二三がセレクトだと言った時に俺は思わずを二度見した)、不定期で行くショッピングモールの中にある遊べる本屋にもよく足を伸ばしている。そしてたまに変なものを買ってくる。猫か熊か兎か分からないぬいぐるみとか、超特大サイズのお菓子とか……。の部屋に溢れる雑貨類を見ると、彼女の趣味が分からなくなることがよくある。
「でも、独歩くんのサプライズならいつでも大歓迎なので」
「そ、そっか……!」
の言葉に俺は歓喜した。これは言質は取ったということでいいだろう。よし、渡し方は決まったぞ、うん。休日、寝ているの指にそっと指輪を嵌めよう。そして、起きぬけのを視覚的に堪能しつつ反応を待つ。喜んでくれるかは分からないけど。
不意に、ピーッ! とやかんの沸騰音が聞こえた。どうやら、俺がパンフレットを捲っている間に茶を沸かしていたらしい。がキッチンの方を見て立ち上がろうとするので、俺はすかさずの腕の裾をくいっと引っ張った。
「俺が、行くよ」
いいの? という顔をしたはすぐにふっと笑った。こんなことでが笑顔になるならなんでもいい。今日の俺はなんだか色々ついてる。いつも辛く苦い思いをしながら日々生きているんだ。たまにはこんな日があってもいいだろう。
俺は一旦ソファーから離れて、ガスを止める。やかんの音が止んで、麦茶の仄かな匂いが鼻を擽った。ついでにの好きなココアでも淹れようかと、リビングをくるりと振り返った時だった。なんと、そこには俺が持ってきたパンフレットを真顔でめくっているがいるではないか。
……ここで、ムンクの叫びを想像してほしい。今、俺はまさにそんな絶望に満ちた顔をしているはずだ。
「わあああぁあ――ッッ!!」
雄叫びを上げて、俺はの手からパンフレットをマッハで奪い取る。ぽかん、としているに震えながら、「み、みた……よな?」と問いかけた。そんなの聞くまでもないし見たに決まってるだろ何言ってんだ俺は。切なる希望に縋るのも限度があるだろ。
……そこで、数十秒くらいだろうか。は目線をすいすいと動かしながら、まるで、空中に浮いている言葉をカンニングするように視線を泳がせている。すると、パンフレットと俺の顔を交互に見ながら、「えっ、と……」とは硬い声を出した。
「……わたし、なにも、みてない。ほんと、なにもみてない。みてない。みたかもしれないけど、もうわすれちゃった。なんだっけ、いまの。ロード・オブ・ザ・リングのパンフレットレット? ミスタードーナツの新作? それとも――」
「ごめんなさいごめんなさい俺が悪かったからそんな苦しいフォローしないでくれすごく惨めになるからああぁぁああ……っ!!」
誤魔化すのを頑張っているに、結局俺はすべてを白状することになった。結婚指輪を渡そうと思ったこと。渡す方法を調べていたけど、の指輪のサイズが分からなくてそもそも指輪が買えないと気づいたこと。サプライズにしようと思って、今さっきから言質を取ったこと。別に、どういうことなんだと言われているわけではないが、に隠し事をしてしまった後ろめたさと罪悪感で胸がどうにかなりそうだった。
とりあえず、指輪を送ろうとしていた趣旨を理解してくれたは「なるほど」と静かに納得した。
「なら、一緒に買いに行きませんか」
あっけらかんと言うに、俺は目が点になりながら「えっ……?」と口から情けない音を漏らした。
「指輪のサイズを変更するのもお金がいるところもあるので、お店に行って一緒に選ぶカップルも今は珍しくないみたいです」
「独歩くんがよければ」とは付け足す。一緒に買いに行く、だなんて考えもしなかった。まさかの言葉に、いつものネガティブ思考がはたらく暇もない。特に、一緒に、という単語が俺の頭に甘美に響いて、気がついたら俺はに向かって人形のようにこくこくと頷いていた。
「じゃ、じゃあ……っ、明日、選ぼう……! 死ぬ気で帰ってくるからッ!」
「では、私も死ぬ気でビルの前で待ってます」
「いやいや、はそんなことしなくていいからな……。というか、ほんと、ありがとう……。あと、なんか、ごめん……。全然面白くない感じになって……。というか、結婚指輪なんて今更だろって感じだよな……。すごい言い訳だけど、今までそんな余裕なかったっていうか、自分のことで精一杯で、のこと考えることできなかったというか――はは、なんだこれ、どんだけ自己中なんだ俺は。は毎日のように俺のこと心配してくれるのに、俺はいつもいつも――」
「そんなことないよ」
は俺の顔を覗き込むと、ぎゅっと俺の右手を握る。一瞬、の左薬指にシルバーに輝くものが見えた気がした。
「すごく、嬉しい。ありがとう」
――ああ、俺はこの笑顔を見るために生きてきたのかもしれない。我慢ならなくなった俺の涙腺が緩み、つー、と目尻から流れたものを見たは、「ティッシュ、ティッシュ」と視線をちらちらと這わした。その後、いつもの涙の大洪水が起きたのは言うまでもなかった。
あれから、ブティックの下見を繰り返して、一週間後には互いの左薬指に対の指輪が収まっていた。会社で嵌めると冷やかしが怖いので、今はまだオフの時以外は鞄の中に大事に仕舞っている。も、水回りの家事をする時は外しているようだった。
まあ……それはいい。問題は、指輪を買ってからがずっと薬指を見ているということだ。
「、」
「…………」
「ー……」
こんな風に呼びかけても返事がない。こちらに向きもしない。の指輪を見る眼差しは、そこに嵌っているダイヤモンドよりもキラキラしていた。のそんな顔、俺見たことないぞ。いや別にいいんだけど……。いいんだけどさ……。を指輪に取られた感じがしてなんか、少し……いや、かなり嫌だ。
でも、ここでグチグチ言ったら小さい男だと思われるだろうか。指輪にヤキモチだなんて子供っぽいと思われるだろうか。どちらにしろに幻滅してほしくない。でも、今は指輪よりも隣に座っている俺を見てほしい。なんでこっち向いてくれないんだ。なんで無視するんだ。なあ、、そんなことずっとされたら、俺は――
「独歩くん独歩くん」
「へっ」
無意識にへ伸ばしていた手を慌てて引っ込める。ははしゃいだ声色で俺を呼び、反対側にある俺の左手をよいしょと持ってきた。
水平に重ねられた互いの指。大きさも、太さも……何もかもが違うのに、同じ指に嵌っている指輪だけは正反対の俺たちを繋ぐようにして、照明の光にきらきらと反射している。
ふと、を見下げると、彼女もまた俺を見上げていて、その頬はゆるっと緩められていた。
「夫婦だね。私たち」
脳髄が爆発した。
ふふ、と笑って、は再び指輪を見つめる。一方の俺はというと、体中の血液という血液が沸騰して、やかんの音に似たものでも聞こえてきそうだった。やばい、なんだこれ、ガスでも興奮でもなんでもいいから誰か止めてくれ。の不意打ちに灰も残らないまま昇天しそうだ。
「うわあああぁぁ……ッ」
「そういえば、このあいだ油を一本を間違えて買ってしまったので、明日は揚げ物オンパレードでいいですか」
「のためならこんなの何個でも買うから……ッ! いつでも言ってくれ……っ!!」
「食用油は一個で大丈夫です独歩くん」
噛み合わない会話も、天と地ほどの差がある性格も、なぜか上手く凹凸が合うのだから不思議だ。だからこそ、互いの左薬指に輝く小さなダイヤに誓って、俺はずっとこの子と生きていこうと強く思った。
